島に足止めの両親、犠牲に 慰霊祭不参加の嘉数次盛さん 死に場所を未確認のまま


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南洋群島戦没者慰霊碑の前で組織的には最後となる現地慰霊祭への思いを託す嘉数次盛さん=24日、那覇市識名

 生まれ故郷のサイパンや沖縄の戦況も知らず、九州への疎開の末に遠く離れた満州で終戦を迎えた。嘉数次盛さん(88)=那覇市=がサイパンに残った両親や次男兄の最期を知ったのは、戦争が終わって数年後のことだった。

 太平洋戦争が勃発し、サイパンでは1943年末から老幼女子の疎開が始まった。チャッチャ小学校高等科の嘉数さんは両親と次男の兄と別れ、沖縄に向かった。「すぐに沖縄で会えると思っていた」

 だが、戦況は悪化し、引き揚げ船が撃沈されるなど母や次男兄は島で足止めを食らった。嘉数さんも沖縄からさらに宮崎県への疎開を命じられた。疎開中に高等科を卒業し、製鉄の訓練を受け、すぐに満州の満州製鉄に送られた。

 その約4カ月後に日本は敗北を宣言。見知らぬ土地に体一つ放り出されたまま放浪しながら現地の闇市場で餅売りするなど、その場しのぎの生活が続いた。

 戦後、広島出身の男性に助けられ混乱する沖縄に戻った。長男は沖縄戦で少年兵となり戦死。生き残った姉を頼りながら米軍の運転手として働く毎日。缶詰をトラックの給油タンクに隠したり、トラック燃料を横流ししたりして「戦果」を上げ、生き抜いた。

 軍作業員として働きながら、サイパンの戦争で父や兄と行動を共にした家族を捜し出した。「両親らは生きて沖縄に帰っていると希望を持っていたが、残念でならなかった」

 サイパンで父たちと戦火から一緒に逃げていた島袋秀夫さん(87)=南風原町=の家族によると、嘉数さんの母は艦砲射撃で犠牲となり、父と次男兄は様子を見てくると先に行って戻ってこなかったという。島袋さんもこの時に自身の父を失った。当時について島袋さんは「多くの人が死んだ。もう何も感じなくなっていた」と振り返る。

 嘉数さんは不整脈で今回慰霊の旅の参加を見送った。島袋さんも足を痛め車いす生活が続いており、参加はかなわなかった。

 「両親の死に場所を確かめることができなかったことは心残り。ただこれが最後にはならない。会としてはいったん閉じるだろうが、生かされたことの意味を考え、慰霊の旅はなくさないでいくことを確認してほしい」と、嘉数さんは慰霊団の存続を望む。戦争の悲惨さを語り継ぐためにも、現地で犠牲者を弔う活動が続くよう思いを託した。

 (謝花史哲)