社会
未来に伝える沖縄戦

<未来に伝える沖縄戦>寝起きの場 空襲、跡形なく 濱崎清昌さん

 勝連村比嘉(現うるま市)で生まれ育った濱崎清昌さん(89)=北谷町=は、沖縄師範学校の予科2年の時に、鉄血勤皇師範隊として戦場に送り込まれました。日本の勝利を信じて疑わず、各地の壕などに身を潜めながら戦渦をくぐり抜けました。濱崎さんの話を北谷高校2年の金城真翔さん(16)、比嘉若都さん(17)、徳里進一朗さん(17)が聞きました。

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沖縄戦当時のことを語る濱崎清昌さん=3日、北谷町上勢頭の自宅

 《濱崎さんは1929年11月9日、勝連村比嘉で生まれました。1936年、浜尋常高等小学校に入学しました》

 海と山がきれいなのどかな場所で幼少期を過ごしました。友人たちとの遊びはもっぱら戦争ごっこで、泥をこねて投げ合ったり、木の枝を剣に見立てて突き合ったりしていました。本島の人たちには負けたくないという思いが強く、勉強も頑張りました。その当時、学校に一つしかないラジオでは常に日本軍優勢の戦況を伝えていました。

 《戦争の気配が沖縄にも色濃く迫っていた44年の4月、教師を目指し、沖縄師範学校に入学します》

 その年の沖縄師範学校への進学は勝連からは1人しかおらず、村長から直々に祝いの言葉をもらいました。入学してからはどの授業も楽しくて、特に広島文理大学出身の佐藤先生の英語の授業が好きでした。ある日、敵国の言葉だということで、急に授業がなくなった時は寂しく思いました。その頃から、授業をせずに日本軍の陣地の構築作業に駆り出されることが多くなりました。小禄飛行場の拡張、天久の高射砲陣地の建設作業に当たりました。

 《10月10日、米軍の機動部隊が沖縄を襲いました。「10・10空襲」と呼ばれています》

 寄宿舎にいて空を見上げると、いつもより飛行機がたくさん飛んでいました。日本の飛行機はブーンという低い音ですが、この日はキーンと耳をつんざくような音が響き渡っていました。爆撃を受けた時は慌てて近くの第二国民学校の防空壕に逃げ込みましたが、人がいっぱいで追い出されてしまいました。師範学校には壕がないので行く場所がほかになく、岩陰に隠れました。那覇市街は壊滅的な被害を受けましたが、首里の被害は大きくありませんでした。空襲後、各地の壕掘りや、首里城正殿の後ろで「留魂壕」と呼ばれた師範隊の陣地造りに専念しました。

※続きは9月11日付紙面をご覧ください。