prime

お酒も飲める”刺身屋” 地元で人気の「節子鮮魚店」は必然的に始まった<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈1>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 “県民の台所”と呼ばれる第一牧志公設市場は、建て替え工事に向けて、7月1日から仮設市場で営業中だ。仮設市場の目の前に、一軒の鮮魚店がある。金城節子さんが創業した「節子鮮魚店」だ。

第一牧志公設市場の仮設市場に隣接する節子鮮魚店=那覇市松尾

必然

 鮮魚店を始めたのは、なかば必然だった。

 金城節子さんは、1937年、那覇市の垣花地区に生まれた。垣花は漁業が盛んな町で、実家も漁業に携わっていた。小学校高学年のうちから、家計を助けるために節子さんはアルバイトを始めて、やがて牧志公設市場の鮮魚店で働くようになる。「モーシー」の愛称で知られる親方は厳しく、怒ると包丁が飛ぶこともあった。そんな親方に気に入られ、20歳そこそこで店を継ぎ、「節子鮮魚店」をオープンする。

 「僕が小さい頃は、まだ古い公設市場でしたね」。節子さんの長男で2代目店主の誠さん(56)はそう振り返る。「和気藹々(あいあい)として、子供達は皆で遊んでました。卵屋さんを通りかかると、口を開けなさいと言われて、うずらの卵を割って塩をポンと入れてくれたり。『マー坊、うたを歌いなさい』と言われて、何か歌うと1セントもらえたり。隣近所とは家族同然の付き合いで、仕事が忙しいと『私がおっぱいあげておくさ』って、隣の子におっぱいあげたりしてたみたいです」

移転賛否で分断も

店内に飾られている写真には金城節子さん(右)が孫の日奈子さん(誠さんの長女)と一緒に笑顔で写っている

 節子さんの店は夜遅くまで客が途切れず、まだ幼かった誠さんは早く帰りたくなり、「もう終わり!」と客を追い返そうとしたこともある。父を早くに亡くし、母ひとり子ひとりで育ったこともあり、誠さんは反抗期らしい反抗期を迎えることもなかった。

 誠さんの父・清三さんが亡くなった頃、公設市場は揺れていた。地主から土地の返還を求められ、利用客からも「もっと衛生的な市場を」との要望が高まり、西銘順治市長は、100メートルほど西に新しい市場を建設する計画を打ち出す。これに市場事業者は猛反発した。計画では食料品を扱う店が地下に追いやられ、1階には当時新栄通り(現在のサンライズ那覇)を間借りしていた花屋通り会が配置されることになっていたのだ。市の言い分は「本土のデパートを見ても、食料品は地下で売られている」だったが、既得権を無視していると市場事業者は反発する。西銘市長が保守派だったことから、保守と革新という政治的な対立も混じり、移転賛成派と反対派に分断されてしまう。選択を迫られた節子さんは移転を承諾した。

 「昭和44年(1969年)に第二公設市場がオープンしたときは、万国旗がかけられて、スピーカーから音楽が流れて、すごく賑やかでしたよ」と誠さんは言う。だが、紆余曲折の末に第一公設市場が元の場所に改築されることになり、ふたつの市場が並存することになった。買い物客は馴染みのある第一公設市場に流れ、第二公設市場は空き小間が増えてゆく。その運営維持は那覇市にとって負担となり、2001年春、第二公設市場は32年の歴史に幕を下ろす。建物の老朽化も閉場の理由とされたが、第一公設市場が47年経ってようやく建て替え工事を迎えたのに比べると、短命に終わったと言える。

 第二公設市場が閉場を迎える頃には誠さんが店を継いでおり、節子さんは2006年に亡くなったが、店名は「節子鮮魚店」のまま。閉場後は第一公設市場に移転したが、隣の空き小間も含めて広々営業できていたのに比べると手狭に感じられ、現在の場所に移転した。

節子鮮魚店2代目店主の金城誠さん=那覇市の同店

立ち食い牡蠣

 「ここに移った頃はまだ卸が中心でしたけど、泊いゆまちが出来てから、料理屋さんはそっちで仕入れをするようになって。どうしようかと思っていたときに、同級生がうちの店に集まって飲む機会があって、牡蠣を出したらすごく喜んでくれたんですよね。それで『立ち食い牡蠣』と看板を出してみると、お客さんが集まるようになって、中でワインでも飲みながら食べたいねと言われてお酒も仕入れるようになったんです。そこからお客さんに言われるままに、七輪で魚を焼けるようにしたり、天ぷらを出すようにしたりして、こんな店になりました」

 軒先には発泡スチロールに氷が満たされ、缶ビールや缶チューハイが冷やされている。飲みたければ自分でそこから取り、会計のときに空き缶を数えて計算する。一番人気はさしみセットで、好きなお酒に刺身の盛り合わせ、それに生牡蠣がついて1300円だ。

 「第二公設市場の跡地は“にぎわい広場”になって、ガジュマルの樹や児童館もあって、すごくゆったりした場所だったんです。お母さん達がうちの店に集まって、広場で子供を遊ばせながらビールを飲んでいたんです。うちから広場が見渡せるから、子供の姿が見えて安心だし、子供達もちょっと寂しくなったら店に入ってきて、刺身をツマんでまた遊びに行く。ゆるやかな時間が流れてたんですよ」

 だが、第一公設市場の建て替えが決まり、目の前に仮設市場がやってきたことで、風景は一変する。

 「仮設市場がオープンして、よく『お客さんが増えたでしょう』と聞かれるんですけど、売り上げは変わらないんですよ」と誠さんは笑う。「反対に、仮設市場の工事中は騒音がうるさくてお客さんが減ると思っていたら、そこも変わらなかった。ただ、前のゆったりした風景が好きだったから、また元通りになるといいんですけどね」

 第一牧志公設市場は、2022年の春にリニューアルオープンを予定しており、仮設市場は3年間限定の建物だ。ただ、新しい市場が完成したあとに仮設市場の跡地がどうなるのか、現時点ではまだ何も決まっていない。

(橋本倫史、ライター)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2019年9月27日 琉球新報掲載)