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母ら亡くなり孤児に 浦添八重子さんの体験(3) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦>


母ら亡くなり孤児に 浦添八重子さんの体験(3) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦> 現在の名護市仲尾次の集落
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 小島幸夫さん(58)=大阪市=の母、浦添八重子さんら家族4人は那覇市首里から本島北部に避難しました。山中での避難生活を経て旧羽地村(現名護市)に米軍が設けた収容地区に入ったようです。

 その後、八重子さんの母の信子さん、祖母カメさん、妹の勝子さんは亡くなりました。3人の名は「平和の礎」に刻まれています。八重子さんの父、朝輔さんは44年7月、フィリピンで戦死しました。家族を失い、八重子さんは孤児になりました。小島さんの便りは次のように記します。

 《私から見て祖父はフィリピンで戦死。一緒に逃げた曾祖母は昭和20年9月、祖母は10月9日、叔母は9月8日にいずれも羽地村仲尾次で死亡と、平和の礎の資料で見つけました。

 私の勝手な想像ですが、名護の多野岳に身を潜めて暮らしていたか、途中の山中で米軍に保護され、田井等収容所に収容され、飢餓やマラリアで3人は亡くなったと考えています。》

 名護市史編さん委員会編「名護・やんばるの沖縄戦」によると、田井等収容地区は羽地村田井等、川上、仲尾次などが範囲で、45年8月時点で6万4千人にまで増えた避難民は飢えやマラリアに苦しみました。

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