激戦地に落ちていた腕輪や羅針盤、2個のメダルを保管する真壁政勇さん(80)=糸満市=は1943年10月、玉城村仲栄真(現南城市玉城中山)で生まれました。父の仙吉さん、母の信さん、3歳上の兄の4人家族でした。
4人は沖縄戦を生き延びます。真壁さんは沖縄戦の記憶はありませんが、激戦の名残を覚えています。「爆弾の破片や鉄かぶとがゴロゴロしていました」
戦後、糸満市真壁に移り住みます。この地で仙吉さんは腕輪と羅針盤、メダルを拾います。戦争体験を話すことはありませんでしたが、「これは大事なものだから、とっておきなさい」と息子に託しました。
イモやサトウキビを作る農家でした。生活は苦しかったといいます。軍人・軍属の家族を戦争で失い、援護法の適用を受けた同級生の家庭は生活に余裕があるように感じたといいます。
「少しうらやましく思うこともありました。でも今考えれば、家族全員が生き延びることができて良かったです」
「糸満市史」によると、真壁だけで760人が戦争で亡くなっています。一家が全滅した世帯は29世帯に上ります。真壁さんの自宅近くにある自然壕アンディラガマには一時、日本軍の野戦病院が置かれました。
ウクライナの戦況が気になります。「真壁でもたくさんの人が亡くなり、平和の礎に名前が刻まれています。戦争はいけません。ミサイルが飛んできたら逃げる場所はどこにもありません」と真壁さんは語ります。
(真壁政勇さんの話は今回で終わります。次回は浦添八重子さんの消息についてです)