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スパイ疑われ 食料失う 山城幸子さん(5) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


スパイ疑われ 食料失う 山城幸子さん(5) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 大宜味村喜如嘉の集落
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 1945年3月末、豊見城村(現豊見城市)根差部を出た山城幸子さん(88)=那覇市=ら7人は宜野湾、金武を経て、4月上旬ごろ、大宜味村喜如嘉にたどり着きます。

 前年の10・10空襲以降、喜如嘉には避難民が殺到していました。避難民の数は44年11月時点で1300人を超えます(「大宜味村史 シマジマ本編」)。

 米軍の本島上陸が迫る中、県は45年2月に中南部住民の北部疎開計画を作ります。大宜味村の割り当ては那覇や豊見城の住民約1万9千人。そのうち約1400人を喜如嘉が受け入れることになりました。住民は避難小屋を山中に建設します(「大宜味村史 通史」)。3月末以降、避難民だけでなく喜如嘉住民も山中に逃れます。

 山城さんは喜如嘉に着いた時には「誰もいなかった。みんな山に逃げていた」と言います。山城さんらも山を登ろうとした時、日本兵と出くわします。

 「山から下りてきた日本兵は『こんな所にいるのはスパイだ』と言って私たちに銃を突き付けてきました。私たちはウチナーグチしか使わないので疑ったのでしょうか。結局、食料を取られてしまいました。とても怖かったですよ」

 山城さんらは山中に掘られた壕に避難していました。梅雨の時期には祖父の丹前で壕に入ってくる雨粒を防ぎました。大勢の避難民が押し寄せた喜如嘉は深刻な食料不足に陥ります。山城さんは山中にある野いちごを食べ、飢えをしのぎました。