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那覇出身者の集落「金武湾」 山城幸子さん(8) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


那覇出身者の集落「金武湾」 山城幸子さん(8) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 敗戦後、多くの那覇市出身者が住んだ「金武湾」=うるま市具志川
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 マラリアで祖父を失った山城幸子さん(88)=那覇市=は具志川村(現うるま市具志川)に終戦直後生まれた「金武湾」という集落に移ります。
 金武湾は米軍の港湾業務に従事する那覇市垣花などの避難民が集まっていました。最も多い時で5千人が住み、にぎわいをみせていました。百貨店、旅館、劇場などが立ち並びました。「金武湾で随分長いこと暮らした」といいます。
 大人たちは軍作業に出かけ、山城さんは家の仕事を言い付けられました。「一斗缶で水くみをするのも私の役目です」と山城さんは話します。時々、軍作業の手伝いもしました。
 周囲の子どもたちは学校に通っていましたが山城さんは通学がかないませんでした。
 「みんなは学校に行くのに自分は水くみ。うらやましいし、恥ずかしかったです。小さい頃から大人の仕事をさせられていました」
 その後、山城さんはようやく那覇に戻ります。現在の松尾あたりにテント小屋を建てて暮らしました。学校にも通うことができました。
 戦争中、離ればなれになっていた家族とも暮らすようになります。2歳上の姉、渡嘉敷清子さんは亡くなっていました。「平和の礎」に関する県資料によると亡くなったのは「昭和20年5月9日」、亡くなった場所は「恩納村恩納」です。祖父の渡嘉敷三郎さんと共に「平和の礎」に名が刻まれています。