有料

父は島尻の激戦地へ 喜屋武貞子さん(2) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦>


父は島尻の激戦地へ 喜屋武貞子さん(2) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦> 喜屋武さんが戦前暮らしていた沖縄市山里、山内付近
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 越来村(現沖縄市)山里で暮らしていた喜屋武貞子さん(84)=那覇市=は米軍が本島に上陸した1945年4月1日ごろ、母の稲嶺千枝さんやきょうだい、祖父、親戚のおば夫妻と共に北部へ向かいます。
 村立越来青年学校の教員をしていた父の盛康さんは残りました。青年学校は越来村の上地にあった越来国民学校の校舎を使用していました。
 《教員だった父は学務の整理や家庭の山羊、豚、鶏など家畜の世話などをして後を追うということで、出発が遅れた。
 しかし、戦争は激しさを増し、もう家族の後は追えなくなり、人々の群れに押し流されて、南へ南へと激戦地の島尻へと押し流された。》
 盛康さんが越来青年学校に勤めていた当時の校長は戦後、コザ市長となる大山朝常さんです。大山さんの回想によると44年2、3月ごろから授業はできなくなり、教師や生徒は壕掘りや陣地造りに追われます。米軍上陸時、大山さんは本部村(現本部町)崎本部に逃れます。
 喜屋武さんらは馬車を借りて北部へ向かいました。空腹と疲労に苦しみました。
 《北部行きの家族は馬車を頼んで、昼は隠れて、夜はガタゴト進んでいたが、そのうち食料がなくなり、いくらかの黒糖で飢えをしのいでいた。そのうち馬車も故障して、歩くしかなかった。割に元気よく歩けるのは11歳の四女と9歳の長男だけだった。》