気持ちの整理が付いていない。最後に会ったのは沖縄の日本復帰50年目の昨年5月だった。沖縄について思いを語っていた。年末に体調を崩し、心配していた。体力があり、いつも「200歳まで生きるから」と冗談で話していた。
琉球朝日放送(QAB)時代、密約の米公文書公開などの取材で、外務省密約事件の新聞記事が中途半端でよく分からず関心を持った。本人に話を聞きたいと思った。どこに住んでいるか分からず、西山という名字を電話帳で調べて北海道から順番に電話し、最後にかけた先が本人だった。事件から数十年ずっと身を隠し、地獄の底から聞こえるような声だった。
「取材は受ける気はない」とメディアへの不信が大きかった。それでも何度か電話し「取材したいのなら2~3日で来い」と言われ、翌日自宅へ向かった。2001年の年末だった。私は一言もしゃべらなかったが、国とメディアへの怒りを8時間ぶつけてきた。こちらを見透かしてくるし怒鳴るしで、取材はとてもやりにくかった。
ものすごく怖かったが、私も「その正当性を堂々とカメラの前で話せばいい」と返すなど、何度もけんかした。妻の啓子さんが間に入ってくれたり、後で本人が「言い過ぎたね」と電話をくれたりして関係は途切れなかった。
証言を収めた作品「告発・外務省機密漏洩事件から三十年 今語られる真実」を02年に放送すると、本人から「パンドラの箱をお前は開けたから、一蓮托生(いちれんたくしょう)だ」と言われた。その後は表情がどんどん柔らかくなった。
ジャーナリストやジャーナリズムがどうあるべきかを、良い意味でも悪い意味でも教えてくれた。西山さんを英雄のようにまつり上げる手助けをしてしまった気持ちと、外務省の女性事務官は社会復帰ができていないことへの心残りがある。
とてもさみしがり屋だった。啓子さんが13年2月に亡くなった後は、毎日のように電話してきた。「(自分が)死ぬとしたら2月。啓子が迎えに来るから」と冗談めいていた。笑顔がすてきな方だった。もっと優しくしてあげれば良かったかな。
(ジャーナリスト、談)