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西田敏行にくぎ付け 「笑わせられる役者」目指し学校で芝居とモノマネ披露 腹話術との出会いと今も心に残る国語教諭の教え いっこく堂さん 北谷高校(1)<セピア色の春>


西田敏行にくぎ付け 「笑わせられる役者」目指し学校で芝居とモノマネ披露 腹話術との出会いと今も心に残る国語教諭の教え いっこく堂さん 北谷高校(1)<セピア色の春> 校舎から運動場ごしの景色=7月24日、北谷町桑江の北谷高校
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 北谷高校4期生の腹話術師、いっこく堂(60)は1963年、名護市出身の父の就職先、神奈川県で生まれた。5歳の頃に沖縄に戻り、飲食店を営んだ両親と共に沖縄市で暮らすようになる。

 小学生の頃は「お調子者」。芸人や役者に憧れた。

 一転、中学に入るとうっ屈した学校生活を送るようになる。部活の同級生から仲間はずれにされるようになると、疑心暗鬼となり「自分の殻に閉じこもるようになった」という。中学2年で出会ったのが、腹話術だった。ニュースで女性警官が腹話術をする様子を見て、衝撃を受けた。だが当時はそこまで。中学3年に上がると、ドラマに出ていた西田敏行にくぎ付けになった。「笑わせられる役者。こういう人になりたい」

 北谷高校に入ると、役者の夢に向かって突き進む。毎週日曜、那覇にできた芸能プロダクションの演劇学校に通った。芝居について学びながら、他に何かできることはないか思案した。それがモノマネだった。

 イベントなど事あるごとに人前に出て、学校の先生や歌手、アニメの登場人物のモノマネを披露した。注目の的となった。学園祭や体育祭の後夜祭などはもちろんのこと、弁論大会の場つなぎとしても登壇。学校を挙げて応援してもらった。

 目指す方向が決まってくると、高校の授業はあまり身に入らなくなった。そんな中でも、今も心に残る言葉がある。

 国語教諭が教えてくれた吉田兼好の随筆「徒然草」の一節だ。「外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す」。見た目や行動が整えば、それに従って内面も自然と成熟してくるという内容だ。高校に入学してからは、役者になるために無理して明るく振る舞っていたというが「自分のやっていることは間違ってないんだ」と思えるようになった。

 3年の頃には沖縄予選があったTBSの「そっくりベストテン」でテレビ初出演。準優勝してグランドチャンピオン大会にも出場した。学外でも認められたモノマネだったが「手段だった。活躍すれば、役者に転向できると思っていた」と振り返る。

 高校を卒業すると、横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)に入るが3カ月で退学。82~85年はモノマネ芸人として活動した。86年、劇団民藝に合格。念願の役者人生が始まった。だが「集団の演技は苦手だった」。周囲に合わせることはできたが、自分を生かし切れていない気がした。92年、休団を申し出た。

 新たな芸に取り組もうと模索した。頭に浮かんだのが腹話術だった。「古めかしい」「衰退した芸」「しょうもない」。冷ややかな目で見られたが、新境地を開拓。スターダムにのし上がった。

 北谷高校でクラスメートや先生たちに芸を披露し、度胸をつけた。「とにかく自分がやりたいことはやるべきだ。何かが生まれる。くだらないことでもいい」。自分の経験が教えてくれた。

(文中敬称略)
(仲村良太)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転