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かつてオレンジレンジも…若手の「登竜門」ライブハウスオーナー喜屋武尚さん 経験に裏打ちされた「やればできる」バスケ元日本代表・稲嶺啓美さん 北谷高校(2) <セピア色の春>


かつてオレンジレンジも…若手の「登竜門」ライブハウスオーナー喜屋武尚さん 経験に裏打ちされた「やればできる」バスケ元日本代表・稲嶺啓美さん 北谷高校(2) <セピア色の春>
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 老舗ライブハウス・モッズのオーナー喜屋武尚(63)は1期生。開校当初は北谷町や沖縄市の一部が校区だった北谷高校。音楽活動が盛んな印象だが、喜屋武の入学時は認められていなかった。

 1960年生まれ、沖縄市久保田出身。中学生の頃、ギターを始めた兄の影響で、音楽に触れるようになった。高校に入ると、紫、コンディショングリーン、メデューサなどオキナワンロックに影響を受け、バンドを結成。沖縄市でライブ活動を始めた。すると、校長室から呼び出された。音響代に充てるための数百円の入場料が問題視された。「やりたいのはやりたい」。ライブを続けるため頭をひねり「チャリティーライブ」として開催した。「先輩なんていないから、自分たちで伝統をつくらないといけなかったよ」と笑う。

喜屋武尚さん

 高3の卒業式。開校から3年がたとうとしていたが、体育館はまだなく、式は運動場で行われた。卒業後は音楽活動をするために上京。調理師学校に通っていた頃、大手術をすることになり、帰郷が決まった。心臓には当時手術した人工弁が今も残る。

 沖縄に戻ってからは国会議員秘書など異色の経歴の後、85年に沖縄市園田にモッズを開店。「音楽で人間の五感を揺さぶりたい」。そんな思いでミュージックバーとして経営を始めたが、週一でイベントを開催していると、ライブの回数が増えた。いつの間にか若手らの育成の場に変貌した。

 手腕を買われ、沖縄市のクラブ「ピラミッド」のプロデューサーも務めた。2002年2月、山内中、北谷高の後輩に当たるオレンジレンジのインディーズデビューイベントも仕掛けた。高校生のライブとしては異例の約800人を動員し、大きな話題となった。

 05年、モッズは北谷町美浜に移転。オープンから間もなく40年を迎えるが音楽への情熱は変わらない。「沖縄の音楽のために何かできないか」。頭をひねり続ける。

 沖縄市でBCスポーツ店を営みながら、市スポーツ協会会長を務める稲嶺啓美(62)は2期生だ。

稲嶺啓美さん

 1961年、コザで生まれた。稲嶺はコザ中に入学し、バレー部に入ろうとしたが「先生が怖そう」でバスケ部に入った。そんな理由だったが、チームは県大会で優勝を果たした。「日本代表になりたい」。夢を抱き、高校は強豪普天間への進学を望む。だが、中学から呼び出しを食らい、校区の北谷に進学するよう強く求められた。コザ中のバスケ部メンバーで北谷に進学したのは稲嶺だけで、開校間もない高校には練習場であるはずの体育館すらなかった。練習は近隣の小中学校を転々とした。夢はかすんだ。

 2年に上がると状況は好転した。バスケの指導者として知られた仲村進、玉城義一が赴任してきた。「全国行くよ」。練習は厳しかったが、稲嶺以外も県内で上位に入っていた北谷中出身者ら。チームは一気にレベルアップし、78年の県高校総体で優勝した。その年、山形県で行われた全国高校総体に出場した。身長162センチのポイントガードとしてチームを引っ張ったが、強豪に敗れた。「悔しい」という思いと同時に、男子で3位に入った辺土名高校の活躍に奮い立った。

 翌79年も全国高校総体に出場した。3位になった昭和学院(千葉)に敗れたが、強豪相手に健闘した。同級生の渡慶次ひとみと共に実業団バスケの第一勧業銀行から声がかかり、80年に入行した。実業団でも活躍し、ついには日本代表に選ばれた。83~85年は全日本メンバーとなり国際大会にも出場する。全日本ではNBA選手渡辺雄太の母・久保田久美もチームメートだった。旧姓が「金城」の稲嶺は「ジョー」と呼ばれた。

 選手引退後は同行那覇支店に勤務。16年に退職してからBCスポーツ店の経営に携わるようになった。その間もバスケは続け、今は母校コザ中で指導する。「北谷に行って良かった。そうじゃないと今の自分はない。子どもたちにはやればできると伝えたい」。シンプルだが、経験に裏打ちされた言葉は胸に突き刺さる。

 (敬称略)
 (仲村良太)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転