国内外から多数の観光客が訪れる北谷町美浜。ひときわ目立つ存在がカラフルなビルが立ち並ぶデポアイランドだ。運営する奥原商事社長の奥原悟(61)は3期生だ。
1962年生まれ、北谷町吉原出身。北谷高校に入学すると、ラグビー同好会から「名前を貸して」と誘われて参加した。当初は指導者もおらず、ルールも分からず、試合には体操着で出場し、審判に教えてもらいながらプレーした。どこにも勝てなかったが、対戦相手との点差は少しずつ縮み、2年の終わりには初勝利。「目標を持って一つ一つ取り組むことの大切さを知った」。のめり込み、主将を任されるまでになる。ラグビー中心の日々、登校すると真っ先に部室に向かった。そこで筋トレし、海を眺めた。その頃から、休みの日は部活を終えると沖縄市で家族が営んでいた「おくはら軍払下品店」を手伝った。高校を卒業すると、自然と店舗で働いた。
店は当初、名前の通り米軍払い下げ品を取り扱っていた。兄・輝夫が代表を務める頃になると、品ぞろえが変わり、米国から輸入した古着が主力になった。85年、店名は「アメリカンスペース」に変わり、アパレル・雑貨店として人気を博した。奥原は店づくりなど店舗経営に携わった。
奥原商事は92年、ハンビー飛行場跡地に110坪の店舗を開いた。98年にはアメリカンビレッジ内に「アメリカンデポ」を開業、テナント13店が入る商業施設の運営に関わるようになる。2009年には敷地面積1万坪の「デポアイランド」を造り上げた。専務として施設の構想、運営に関わってきた奥原は3年ほど前、社長に就任した。
デポアイランドの目の前は東シナ海に夕日が沈む絶好の立地。その海はラグビー部時代に部室から眺めた海だ。「あの頃はこうなるとは思ってもいなかった。まだ街は完成していない。変化はまだまだ続く」と目を細める奥原。どう転がるか分からないラグビーボールを今も追いかけている。
奥原と同じ3期生で、共にラグビーに打ち込んだ一人に前衆院議員の屋良朝博(61)がいる。
1962年生まれ、北谷町北前出身。「アメフト好き、珍しいものが好きという人が集まっていた」というラグビー同好会に入った。記憶に残るのは、キャンプ瑞慶覧で米軍関係者と試合し、相手に捕まったままトライされたことだ。
学校で気に入っていたのは海が見えるところだった。サーファーの友人と一緒に砂辺、宮城の海でサーフィンし波を捕まえた。校舎のベランダから海を眺め「『今日はショルダー』『オーバーヘッドだ』なんて話していたよ」と振り返る。
青春を謳歌した高校生活だったが、成績は「そこそこ」。進路は専門学校や大学ではなく「別の選択肢」だった。
「留学したい」。2年の頃、衆院議員や沖縄市長を務めた東門美津子が営む英会話学院に通い始めた。高校卒業後にフィリピンに留学すると決めたからだ。アメリカ留学は授業料が高額だった。そんな時、フィリピンの大学でも英語で勉強できると知った。しかも那覇から直行便で2時間。生活費も授業料も安く、魅力的だった。
高校卒業後、フィリピン大経済学部に入学。86年2月、フィリピンでその後の人生に大きな影響を与える現場に身を置いた。マルコス独裁政権を崩壊に追い込んだ「ピープルパワー革命」だ。
大学の友人らと共にデモに参加し、ラジオの呼びかけに応じ、人間バリケードとして路上に陣取った。そこには戦車が向かっていた。「死ぬかも」と頭をよぎったが、マルコスは結局、国外へ逃亡。道路を埋め尽くした人々は歓喜に沸き、友人から「お前は名誉フィリピン人だ」と言われた。社会の変動を肌で感じ、人々と共にありたいと思い、卒業後は沖縄タイムスで記者として働いた。
記者時代は基地問題を主に担当した。米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古の新基地建設については、海兵隊の移転などで不要になると持論を展開。衆院議員時代も国会で訴え続けた。自身の歩みについて、主流ではないものや代替案を指す「オルタナティブ」を探す道だったと振り返る屋良。目標や夢を実現するための道は一つではない。自らの経験で体現する。
(敬称略)
(仲村良太)
【沿革】
1976年4月 開校
79年3月 第1回卒業式
92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)
2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝
05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜
07年2月 新校舎へ移転