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個性的な恩師に刺激を受け教員の道へ…川畑三矢さん いっこく堂さん、ビッグワンの久保田社長ら高校時代の人脈いまも…伝道勉さん 北谷高校(4)<セピア色の春>


個性的な恩師に刺激を受け教員の道へ…川畑三矢さん いっこく堂さん、ビッグワンの久保田社長ら高校時代の人脈いまも…伝道勉さん 北谷高校(4)<セピア色の春> 中庭から眺める旧校舎(創立二十周年記念誌より)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 高校教諭として母校でも勤務し、現在は専門学校那覇日経ビジネス学校長の川畑三矢(61)は3期生だ。「生徒のそばにいるのが自分の性に合う」。自分を見つめる言葉の裏には個性と熱意にあふれるお手本がいた。

 1962年生まれ、沖縄市山内出身。小学校から野球部で、山内中時代には県大会で準優勝を経験する。強豪校から誘いもあったが同級生と一緒に野球がしたくて北谷高校へ進学した。

川畑三矢さん

 創立間もない高校は施設の整備も途上だった。練習場所は学校から少し離れた桑江公園。練習中には「水は飲むな」と今では理不尽な厳しさもあったが、野球に打ち込んだ。

 高校では、やる気と個性に満ちた教職員に刺激を受けた。数学の仲松健は空手の達人であると同時に、授業は哲学的な内容だった。野球部の監督を務めたのは、事務職員の米須清徳。熱意を持って野球を教えてくれた。北谷高は「大学のようだった。いい先生に恵まれた」と振り返る。

 川畑は野球部の主将となり、捕手や一塁手として甲子園を目指した。夢はかなわなかったが、その頃から「将来は先生になりたい」とおぼろげに思うようになったという。

 高校卒業後、一度は教員とは別の道に進んだが「自分には教員が合っている」と信じ、浪人して日本体育大に入学。89年から体育教諭としての人生が始まった。

 勤務地では野球部の監督を務めた。那覇高やコザ高など100人近い部員がいる大所帯を指揮することもあれば、久米島高では休部状態の野球部を再興させたこともある。生徒のために共に汗を流してきた。その手腕が買われ、県高校野球連盟会長も務めた。

 教員になって目指したのは母校の北谷高野球部で監督になること。赴任できたがその時は既に教頭という立場だった。監督にはなれなかったものの、トレーニングを教えるなど少しでも生徒の役に立とうと考えた。「一緒に夢を追いかけることはやりがいがあり、大事にした」。生徒と真摯(しんし)に向き合う川畑。今では自らが手本となる存在かもしれない。

伝道勉さん

 北谷グスクの南、今は米軍基地内にある「伝道村」。名前通りのルーツで、徳里産業前社長の伝道勉(60)は4期生だ。「近いから」という理由で選んだ北谷高だったが、当時のつながりは今も続いている。

 北谷町吉原出身の1963年生まれ。新聞を読むのが好きで、得意科目は「社会」。高校では教諭から「この点数はおかしい」などとカンニングを疑われるほどテストは高得点だった。

 刺激を受けた同級生は同じクラスになったこともある、いっこく堂だ。社会見学で訪れた東南植物楽園では、いっこく堂がモノマネを披露すると他校も含めて人だかりができた。「当時から役者になりたいと言っていた。サインの練習もしていたよ」と振り返る。

 役者を目指していたいっこく堂を横目に「漠然と大学に行きたい。東京に行ってみたい」と東京都内の大学を目指し、日大法学部への進学が決まった。

 上京後も事あるごとに高校の同級生で集まった。イバノ社長となる平良秀樹、西自動車商会社長となる津嘉山修、そして妻となる栄野比典子がいた。携帯電話のない時代、それぞれのアパートの固定電話にかけて、集まったという。

 大学卒業後は沖縄に戻り、琉球銀行に入行し15年務めた。その後は縁があった徳里産業に。8月まで社長を務めた。

 この間、東京でも一緒だった仲間や同じく同級生でビッグワン社長の久保田安彦も県内の経済界で活躍した。恩師からも住宅建築の相談を受けこともあった。「同級生は今でもよく集まる。気の置けない仲間かな」。高校時代の人脈は今も生きている。

 (敬称略)
 (仲村良太)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転