prime

アーツマネジャーとして沖縄と世界をつなげる…内間直子さん 音楽の成績は「2」だった…よなは徹さん 北谷高校(7)<セピア色の春>


アーツマネジャーとして沖縄と世界をつなげる…内間直子さん 音楽の成績は「2」だった…よなは徹さん 北谷高校(7)<セピア色の春> 北谷高校校門=北谷町桑江
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 アーツマネジャー、キュレーターとして活躍する内間直子(49)は15期生。好きなことを仕事にし、順風満帆に見えるが「真っすぐな道を歩んでいない。寄り道ばっかり」の半生だった。

 1974年生まれ、沖縄市諸見出身。山内中でバスケットボール部に所属。受験に有利と思い、普通高校の北谷に進学を決めた。

内間 直子さん

 高校に入ると、女子バスケ部に入った。2、3年では県内でも上位に食い込んだ。米軍基地内のクバサキハイスクールと練習試合をしたこともある。基地内の体育館はクーラー完備、スピーカーからは音楽が流れ、体格は全然違った。「圧倒された。けど、試合には勝ったよ」と笑う。

 高校卒業後、推薦で沖縄キリスト教短期大学英語科に入学。周囲は「ネーティブみたいだった」と英語力の高さに驚いた。97年、英国に語学留学した。

 ロンドンで語学学校に通いながら、貿易会社で働いた。当時の英国は「クール・ブリタニア」という国家ブランド戦略を推進。音楽「ブリット・ポップ」がヒットし、映画では「トレインスポッティング」が話題になるなど、英国発の芸術文化が注目されていた。内間も学校で写真やアートを学んだ。

 沖縄を離れて10年近くたつと、次第に地元・沖縄の芸術や文化の素晴らしさを実感するようになる。学んだ知識を生かし、沖縄の芸術・文化を現地で紹介しようと考えた。県人会や三線会などの協力で、沖縄の文化や芸術を一堂に集めたイベント「ロンドン沖縄デー」を企画し2009年に開催した。翌10年は8千人近くが来訪。来場者には「涙を流す人もいた」。ニーズがあると実感した。

 それから、石川真生写真展「沖縄ソウル」を開催するなど、個人マネジャーを務めたこともある。著名なキュレーター、サイモン・ベイカーに直接メールを送り、人脈開拓にも励んだ。

 現在は本紙で美術月評を担当するなど、沖縄を拠点に活動する。「自分はたたき上げ。壁にぶち当たりながら進んできた」。試行錯誤し、沖縄と世界をつなげる。

よなは 徹さん

 エイサーが盛んな北谷町の謝苅出身のよなは徹(46)は17期生。幼少期から三線に親しみ、歌者として民謡、古典にとどまらず、ロックやヒップホップのグループともコラボレーションし、あらゆる音楽を吸収してきた。

 「記録にはあるが記憶にはない。親のマネだと思う」。戦後の沖縄民謡を代表する重鎮の一人、津波恒徳の下で腕を磨いた、よなはの父。タクシー運転手をしながら、三線教室を開いていた頃、3歳のよなはも三線に親しんだ。

 4、5歳には子役として那覇の沖映本館で琉舞を踊った。三線の転機は北玉小に通っていた高学年の頃。ライバルの演奏を舞台袖で見ていた時、師事していた松田弘一から翌週の敬老会で歌うよう「ダイサナジャー」の歌詞を渡された。三線で初舞台だった。

 桑江中学に上がると、県立芸大を目指すようになる。北谷高では小4から教わっていた空手部に入った。三線、琉舞、太鼓にも励む“四刀流”だった。慌ただしい日々を送り「ほとんど遊びに行くこともなかった」と振り返る。

 音楽は学年やクラスでトップと思いきや、成績は「2」だったという。五線譜は読めず、ある教諭からは「芸大なんて行けないよ」と言われたという。五線譜は今でも読めない。だが、鼻歌を使って作曲はできる。「音楽は自由。自分なりのやり方でいいのでは」と笑う。教諭の評価などものともせず、県立芸大に進み、2001年にはアルバム「よざれ節」でデビューした。今ではRBCiラジオの人気番組「民謡で今日(ちゅう)拝(うが)なびら」でパーソナリティーを務めるなど、民謡界を代表する一人だ。7月には、解散したTHE BOOMのギタリスト小林孝至との弦楽器デュオ「KUON」としてファーストミニアルバム「9strings」を配信リリースするなど、精力的に活動する。「爆発的なヒットはないけど、どこかで、誰かが聴いていると思うとうれしい」。活躍の場はさらに広がる。

 (敬称略)
 (仲村良太)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転