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アートの世界を歩み出す姉妹 美術教育に力注ぐ村松芽さん、海外で転機重ねる小見山道さん 北谷高校(8)<セピア色の春>


アートの世界を歩み出す姉妹 美術教育に力注ぐ村松芽さん、海外で転機重ねる小見山道さん 北谷高校(8)<セピア色の春> 校舎から運動場ごしの景色=7月24日、北谷町桑江の北谷高校
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 西海岸に広がる海を校舎から見つめていた姉妹がいた。2人は卒業後、アートの世界を歩み出す。姉で10期の村松芽(54)、妹で19期の小見山道(44)である。父は俳人の野ざらし延男(本名・山城信男)。姉妹はそろって「父の影響を受けた」と話す。

 姉の村松は幼少の頃から絵が好きで、クレヨンや色鉛筆を持ち歩いた。現在のうるま市石川にある父の実家では祖父母が孫のためにお絵かきの紙を用意してくれた。

村松 芽さん

 「自分にとって絵を描くことはとても自然だった。色を使うことで違う世界が広がった」

 両親の方針で家にはテレビがなく、自然に親しむ少女期を送った。中学生の頃は周囲の同級生とは話が合わず、「周りから浮いていた」。心に葛藤を抱えていた。

 1985年、北谷高校に入学する。学校のロケーションが気に入った。教室の窓から外を眺めると青い海が目に飛び込んでくる。「海が見える学び舎は心の支えになった」と村松は語る。

 音楽も好きで独唱に力を入れた。美術か音楽か、進路に悩んだ時期もあった。高校3年になり、そんな迷いを断ち切るきっかけがあった。来県した壁画家・松井エイコとの出会いだ。講演会に参加し、絵を見てもらった。

 「私の人生を変えた人。画家は職業ではなく生き方だと学んだ」

 卒業後、4浪を経て東京芸術大学に入学した。その間、体調を崩し、絵筆が握れない時期があった。「それが良かった。シンプルな世界観を深めることができた。俳句のようだと思った」

 海外での活動を経て、現在は県内に拠点を置く。2017年、母校の北谷第二小学校で、児童と共に校歌の歌詞からイメージを膨らませ、壁画を描いた。作詞者は父である。初の親子共演だった。

 現在、子どもたちの美術教育に力を注ぐ。「美術を通して広い世界につながってほしい。個を深く掘り下げてほしい」

小見山 道さん

 村松の卒業から6年後の1994年、妹の小見山が入学する。「渡り廊下から空と海が見える。青春のシンボル、心が癒やされた」

 姉と同様、絵が好きな幼少期を送った。音楽にも親しんだ。

 入学時は名将と言われる安里幸男が率いる男子バスケットボール部が活躍した時期と重なっていた。県内各地の生徒が集まった。

 2年生になり、小見山は芸大を目指すようになる。絵画の予備校にも通った。その頃、東京芸大に席を置いていた姉が教育実習で北谷高校にやってきた。「音楽を聴き、自由に絵を描かせたくれた。これまでとは全く違う授業だった」

 自信を持って東京芸大に挑んだが、結果は不合格。浪人を覚悟していた小見山に姉は「留学してみてはどうか。海外の方が伸び伸びと勉強できる」と助言した。

 98年、カナダへ渡る。苦手だった英語はアルファベットから学び直し、モントリオールのコンコーディア大学に入学。アートの道を歩み出した。洋菓子の専門学校にも通い、パティシエの資格も取った。絵画の技量が生きた。

 順風満帆に思えた芸術家の歩み。ところが大きな転機が訪れる。2015年、一時帰国した折、視野が極端に狭くなる網膜色素変性症が重症化していることが分かった。精神的ダメージは大きかった。「目が見えなくなる。生きていてもしょうがない」

 それでも同じ病気と闘う仲間との出会いで少しずつ立ち直った。両親の支えもあった。視覚障がいに関する啓蒙活動に関心を向けた。今では「視覚障がいは一つのアイデンティティーとして受け入れている」と語れるまでになった。

 現在、モントリオールで暮らす。創作活動は中断し、4歳の息子の子育てに励む。時には一緒に絵を描くこともある。色彩の判別が難しくなった小見山を息子が助けてくれるという。

 「うちの息子がママの目になってあげるよ、と言ってくれる。頼もしいですよね」

 (敬称略)
 (小那覇安剛)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転