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戦況悪化、北部へ逃避行 喜屋武貞子さん(1) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦>


戦況悪化、北部へ逃避行 喜屋武貞子さん(1) 母の戦争<読者と刻む沖縄戦> 喜屋武貞子さん
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那覇市首里久場川町にお住まいの喜屋武貞子さん(84)から、母の稲嶺千枝さんの沖縄戦体験記をいただきました。一家は越来村(現沖縄市)から久志村(現名護市)に避難しました。千枝さんは山中で次男を出産しました。


 喜屋武さんは1939年1月の生まれ。沖縄戦当時は7人きょうだいの五女でした。一家は現在の県立球陽高校(沖縄市南桃原)の近くで暮らしていました。父の稲嶺盛康さんは教員でした。母の千枝さんは家族が食べるイモや野菜を畑で作っていました。

 1945年4月1日の米軍上陸前、中南部住民の北部疎開が本格化します。「沖縄市史 戦争編」によると、越来村民の疎開は4月1日、2日に集中しています。喜屋武さんも「上陸したみたいよ、といううわさがあって疎開した」と記憶しています。受け入れ地は羽地村(現名護市)の源河でした。

 《戦争が激しくなって北部に避難することになった時、母は臨月で大きなおなかを抱えていた。その時、長女は17歳、女学校へ行っていたけれど体調不良で家へ戻っていた。次女15歳、三女13歳、四女11歳、長男9歳、五女6歳、六女3歳。

 それに70代の祖父をはじめ、その妹や親戚のおば夫妻と共に、当時の越来村から北部の源河や久志を目指して逃避行をした。次女と三女は宮崎県へ学童疎開をした。》

 次女と三女は対馬丸に乗る予定で那覇港に向かいましたが、満員のため乗ることができず、いったん越来に戻り、別の船に乗りました。44年8月の米軍による対馬丸撃沈を知ったのは戦後のことです。