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バスケ部でジェットコースターのような半生送る…赤嶺直幸さん 先輩と二人三脚でボウリングの全国大会頂点に…宮城鈴菜さん 北谷高校(10)<セピア色の春>


バスケ部でジェットコースターのような半生送る…赤嶺直幸さん 先輩と二人三脚でボウリングの全国大会頂点に…宮城鈴菜さん 北谷高校(10)<セピア色の春> 女子で初の全国高校対抗選手権大会2連覇を達成した(左から)宮城鈴菜さんと伊保さやかさん=2005年12月、那覇空港
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「バスケットボールの神様」と呼ばれるマイケル・ジョーダンの背番号23番と「同じ23期生」と語る保険代理店経営の赤嶺直幸(41)はバスケ部でジェットコースターのような半生を送った。

赤嶺 直幸さん

 1982年生まれ、うるま市出身。与那城小の4年生で屋慶名児童館に通っていた頃、バスケが好きになった。小学校のチームは県でベスト4入り、さらに上を目指した。校区外の高江洲中へ。指導者は美東中や与勝中で全国制覇した名護宏信。赤嶺は3年で都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会(現・全国U15バスケットボール選手権大会)の県選抜として全国制覇を成し遂げた。

 高校は県内外から声が掛かったが、中学の先輩島袋信一がいる北谷の練習を見学。見るだけのつもりが、シューズを借りて参加。眼鏡が壊れるほど夢中になった。

 「3年間苦しかった」。エースとして期待されながらも、同世代で後にプロ選手となる澤岻直人、城間修平、呉屋貴教、与那嶺翼らを擁する北中城に負け続けた。県外強豪校の先輩からは「進路、間違ったな」と言われた。2000年2月、2位で出場した2年生最後の九州大会。赤嶺は3点弾を武器に得点を重ね、小林(宮崎県)、福岡大大濠など強豪を次々撃破、決勝は北中城と対戦した。苦しみながらも得点を重ね、72―62でライバルを破り優勝。得点王となり、主将湧川司と共に全日本ジュニア代表候補に選ばれた。監督の安里幸男が北谷を指揮する最後の大会だった。3年にはウインターカップでベスト8入りした。

 卒業式の日、中部工業に異動していた安里が訪れ、卒業部員全員への思いを込めた言葉をつづった色紙を贈った。赤嶺は「初志貫徹」という言葉をもらった。

 卒業後はバスケで大学に進学したが、壁にぶち当たり退学した。自暴自棄になり駅前で寝起きした。バスケと距離を置いて数年、ストリートバスケを体験した。「やっぱりバスケが好き」。好きになった当時を思いだした。帰郷後は保険代理店で勤務、6年前に独立した。「プロの第2の人生支援などをしてみたい」。全ての経験を生かそうと前を向く。

宮城 鈴菜さん

 プロボウラーの宮城鈴菜(35)は29期生だ。高校では全国制覇を果たし、国際大会にも出場。現在は海外での大会に挑戦中だ。

 1988年生まれ、沖縄市泡瀬出身。泡瀬小に通っていた頃に「ボウリング好きの父の影響」でボウリング場に通い始めると、めきめきと上達。沖縄東中1年の頃にパーフェクトゲームを達成し、2年になると全日本中学選手権を果たした。高校は一緒にボウリングをしていた一つ上の先輩、伊保さやかを追って北谷へ進学した。

 「一緒に大会に出て成長できた」。宮城は当時をこう振り返る。1年の冬、宮城と伊保は全国高校対抗選手権大会に出場した。宮城は大会前に右腕の肉離れで万全ではなく、予選では伊保が引っ張った。決勝トーナメントに入ると宮城も復調し、準決勝で50ピン差、決勝も40ピン差と相手を寄せ付けず、頂点に上り詰めた。2年の冬にも同大会に2人で出場すると、今度は伊保が調子を落とす中、宮城が引っ張り、他校を寄せ付けず2連覇を果たした。宮城は当時の本紙取材に「さやかと一緒にやるのも最後だと思って、楽しくやりたかった。優勝もできてうれしい」と無邪気に喜んでいた。

 高校生活では2年間、建て替えでプレハブ校舎で学んだ。「夏は暑いし、冬は寒くて大変だった」と笑う。大会などで授業を休むことも多く、修学旅行にも行けなかったという。それでも学校を抜け出して友人と美浜に遊びに行くなど、高校生活を満喫した。中学、高校とハンドボール部にも所属した。「体力がついたかも」とボウリングにも生かした。

 高校卒業後も国内の各種大会に出場。プロも参戦する大会で優勝するなどし、実技テスト免除で2009年にプロとなった。近年は米国の大会にも出場する。「世界で一番になりたい」。さらなる高みを目指している。

 (敬称略)
 (仲村良太)

【沿革】

1976年4月 開校

79年3月 第1回卒業式

92年6月 県高校総体男子バスケットボール優勝(3連覇)

2000年2月 全九州高校バスケットボール春季選手権大会男子優勝

05年12月 全国高校対抗ボウリング大会優勝(2連覇)伊保さやか、宮城鈴菜

07年2月 新校舎へ移転