琉球国とフランスが交わした琉仏修好条約の関連文書の原本とみられる文書が168年ぶりに見つかった。国書(外交文書)の原本とみられる4通の文書は、軍事力を背景に一方的に通商を求めるフランスから譲歩を得ようと琉球国が粘り強く交渉を進める過程が記録されている。
「貿易」「領事館の設置」「買地留人(土地売買と定住)」―。1855年10月1日、来琉したフランスのゲラン提督から「通商章程十条」の条件を突きつけられるところから交渉は始まる。
10月5日付の国書によると、琉球国で交渉に当たったのは「総理大臣」「布政大夫」なる役職に就く3人。通商を求めるフランス側が示した条件の中で琉球国が問題視したのが冒頭の3点だった。
国書を調査した東京古典会の関係者によると、琉球国側は、清国(中国)と日本の二国と関係を結んでいた自国の立場を訴え、譲歩を求めた。
同7日付の国書では、1846年にフランス艦隊が運天港(今帰仁村)に来航した際、琉球国側が「小国は土地はやせ物産も少なく」と交易に難色を示していたことを伝えたが、ゲラン提督は「一条も改変を認めぬ」と強硬姿勢を崩さない。
同8日付の国書での訴えも受け入れられなかった琉球国側は、ゲラン提督との交渉を諦め、フランスでゲラン提督より高位の権限を持つ相手との交渉を模索する。
琉球国側は、同10日付の皇帝ナポレオン三世に宛てた国書による直訴で事態打開を図るが、ゲラン提督は激高。抜刀して条約の調印を迫るゲラン提督に押される形で、同15日、フランスが示した条約案をのんだという。
琉球国は、フランスの圧力に屈して条約調印に追い込まれたともいえるが、今回新たに発見された条約の原案は10カ条で構成されている。
一方、外務省外交史料館に保存されている条約の原本は11カ条で構成されており、交渉を経て条約の内容が原案から変更されていた格好だ。
当時は、清国(中国)が英国に敗れた1840年から42年にかけてのアヘン戦争以降、欧米列強がアジアの植民地化を進めていた時期で、難局の中で独自外交の展開を記録した文書は、琉球国の歴史評価にも影響を与えそうだ。
(安里洋輔)
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琉仏修好条約の交渉の記録が詳細に記された第一級の一次資料だ。歴史的な価値は極めて高い。
特筆すべきは、新たに見つかった琉球国側からフランス側への国書4通に「琉球国印」が刻印されている点だ。1855年当時、日本でも国印は用いられておらず、琉球国は朝貢関係にある日本に先駆けて、国際社会の中で明確に国家意思を示していたことになる。
11条からなる琉仏条約が原案の段階で10条だったことも興味深い。条文の内容について詳細な分析が必要だが、4通の国書の存在と重ね合わせると、琉球国とフランスとの外交交渉が、調印に至るまでに条約内容に影響を与えた可能性もある。
これまで琉仏条約は、圧倒的な国力の差により、フランスから琉球国に一方的に押し付けられたものだったとの解釈が通説になっていた。
今回、発見された一連の文書は、琉球国が独自の外交を欧米列強に対して試みた証左でもある。