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公判で問いかけた「うちなーや 日本やがやー(沖縄は日本なのか)」3人の若者の言葉<不条理に抗う>5 国会爆竹事件


公判で問いかけた「うちなーや 日本やがやー(沖縄は日本なのか)」3人の若者の言葉<不条理に抗う>5 国会爆竹事件 衆議院特別委員会で沖縄返還協定が強行採決されたときの様子=1971年11月17日
この記事を書いた人 Avatar photo 吉田 健一

 1971年10月、東京大学に在籍していた長嶺弘善さん(72)はテレビで伝えられた事件にくぎ付けになった。小禄高校を卒業し1年の浪人を経て、この年に上京していた。

 沖縄の日本復帰を間近に控えた10月19日、沖縄返還協定批准が争点となった臨時国会いわゆる「沖縄国会」で、佐藤栄作首相が所信表明を演説中、さく裂音が響いた。「沖縄青年同盟」(沖青同)に所属する男女3人が傍聴席から爆竹を投げ込み、「沖縄返還協定粉砕」「全ての在日沖縄人は団結して決起せよ」と訴えた。「沖縄国会爆竹事件」として知られる。

長嶺弘善さん
長嶺弘善さん

 当時の長嶺さんは国費制度を利用して東大に進学したが、東京の環境になじめず、目黒区駒場にあった大学の学生寮では周囲から、さげすまれていると感じていた。数カ月後には県出身の学生が利用する南灯寮(狛江市)に移った。爆竹事件はそんな時に起こった。「彼らの存在と行動に強い衝撃を受けた」

 復帰前、就職や進学のために沖縄から本土にわたった若者は、日本語への違和感を抱えながら劣悪な労働環境や差別などさまざまな困難に直面した。3人の若者も同様にもがき、苦しんでいた。

 同じ境遇の若者は団結した。68年、沖青同の前身にあたる沖縄問題研究会が発足した。勉強会や集会などを通して、日本人とは違う、「沖縄人」としての意識を確立し、沖縄の自立と解放を求めて運動した。

 爆竹事件の翌月、知人の誘いで長嶺さんは沖青同の集会に参加した。長嶺さんはかつて「復帰すれば米軍の圧政から逃れられると思っていた」。当時、長嶺さんをはじめ多くの県民は平和憲法下の日本に戻ることで「本土並み」の生活になると信じていた。

 しかし、71年6月に明らかになった「沖縄返還協定」の内容は期待を裏切った。沖縄にある米軍基地の多くは維持され、基地の本土並みは程遠いものだった。

 逮捕された3人は建造物侵入と威力業務妨害の罪で起訴された。3人はそれぞれの生まれ故郷である島の言葉を使って公判に臨んだ。「日本語」で話すよう強く求める裁判長と対立しながらも、独自の歴史、文化を持つ沖縄が日本と違うことを浮き彫りにした。

今年3月11日に死去した本村紀夫さん。米軍基地が集中する不条理に抗議の声を上げ続け、沖縄の自立や自己決定権を求めた
今年3月11日に死去した本村紀夫さん。米軍基地が集中する不条理に抗議の声を上げ続け、沖縄の自立や自己決定権を求めた

 石垣島出身の故真久田正さん、宮古島出身の故本村紀夫さん、そして女性は公判で訴えた。「法廷で裁かれるべきは日本人総体である。われわれは日本人ではなく、沖縄人として法廷に立っている」

 復帰から52年。県民が願った「基地のない平和で豊かな沖縄」は実現していない。「うちなーや 日本やがやー」(沖縄は日本なのか)。3人が公判で投げかけた問いかけは、今も日本に突きつけられたままだ。

 2023年10月19日、長嶺さんや本村さんら沖青同の元メンバーは運動の軌跡を残すため資料集を発刊した。本村さんはことし3月に亡くなった。「沖青同の活動を記録として後世に残すのは私たちの義務だ。亡くなった同志の思いを無にすることなく、編集作業に打ち込み、ようやく刊行することができた。次世代の沖縄人への財産になる」。本村さんが本に託した思いだ。

 復帰をどうとらえるか。長嶺さんに尋ねた。善しあしは付けられないと前置きし、こう語った。「沖縄の自己決定権はないがしろにされてきた。沖縄が自己決定権を持たない限り現状は変わらない」 

(吉田健一)


<用語>沖縄国会爆竹事件

 1971年10月19日、佐藤栄作首相の所信表明演説中の国会に爆竹が投げ込まれた。県出身の若者3人が建造物侵入と威力業務妨害の罪で起訴された。公判は72年5月15日の「日本復帰」をまたいで開かれ、東京高裁は3人に懲役8月執行猶予3年の判決を言い渡した。3人は公判で生まれ島の言葉を用い、明治政府による琉球処分や沖縄戦、米統治下など沖縄が歩んだ苦難の歴史を訴え、復帰を「第三の琉球処分」と主張した。