宮古島の住民54人が、台湾の先住民に殺害された報復として、1874年5月に明治政府が台湾に軍事侵攻し、先住民を制圧した「牡丹社事件」から今年5月で150年となる。台湾・屏東県牡丹郷で22日、宮古島市の関係者らも参加し、追悼式が開かれた。大国の狭間で翻弄(ほんろう)されてきた台湾・牡丹郷と沖縄・宮古島市の人々は悲しい歴史を乗り越え、平和と友好の交流を発展させていこうと確認した。
追悼式は屏東県の主催で、同県の周春米知事をはじめ、牡丹郷の潘壮志郷長や宮古島市教育委員会の大城裕子教育長ら約200人が出席した。
牡丹郷の「石門古戦場」では、日本軍とパイワン族の人々と激しい戦いが展開された。昨年、屏東県は激戦地の「macacukes(マツァツウクス)石門古戦場」を「県定史跡」に指定。新たに石碑が建立され、22日の追悼式では、宮古島市の関係者らも参加して除幕式も行われた。
屏東県の周知事は「足元の土地の歴史を思い起こし、この場所の多様で豊かな文化も体験してもらいたい」とあいさつ。牡丹郷の潘郷長は「歴史を忘れてはいけない。日本軍の侵攻に抵抗し、故郷を守った『牡丹社事件』の精神を受け継いでいきたい」と語った。
牡丹郷と宮古島市の人々は2005年、双方の立場を理解しあう「和解」を実現した。宮古島市の大城教育長は「近年、牡丹郷の皆さまと宮古島市民の間では、『愛と和平』の柱を基とした親善交流によって事件の誤解を解き、相互理解と和平をもって対応することが確認されてきた」と振り返った。その上で「努力を重ねてこられた先人たちに感謝すると同時に新しい広がりを生み出せるよう、皆さまと一緒に交流の輪を広げていきたい」と関係の深化に意欲を見せた。
11月には、牡丹郷の人々が宮古島市を訪れ、交流を深めるという。
(呉俐君、友寄開、中村万里子)
琉球併合、台湾領有起点に 牡丹社事件
1871年、宮古島の住民が船で首里王府への納税の帰途に台風に遭い、台湾へ漂着。54人が先住民に殺害された。それまで日清両属だった琉球に対し、明治政府は沖縄が日本のみに専属していることを公然化させるため、報復として74年5月に「台湾出兵」に踏み切った。
日本軍はパイワン族の牡丹社や高士仏(くすくす)社の人々と激しい戦闘を展開した。その後日本は中国(清)から見舞金を得て撤兵。清に琉球の所属が日本であることを認めさせ、国際社会も了承した。
琉球は最後まで明治政府に対して出兵に反対していた。琉球民遭難殺害事件から台湾出兵の一連の出来事を牡丹社事件という。ただ、殺害は牡丹社ではなく高士仏社の人々によるものだったという説もあり、いきさつなども諸説ある。
台湾出兵は近代日本初の海外派兵であり、琉球の併合、続く台湾領有や日韓併合など日本帝国の膨張・対外侵出の起点となったとされる。