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軍事要塞化、祈りの島壊す 繰り返す空襲に死を覚悟 “国防”の名の下、再び暮らし脅かす<国防が奪った 沖縄戦79年>6


軍事要塞化、祈りの島壊す 繰り返す空襲に死を覚悟 “国防”の名の下、再び暮らし脅かす<国防が奪った 沖縄戦79年>6 「町長がしっかりしないと島を守れない」と語る入与那国米子さん=5月19日、石垣市
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 「荒潮の息吹きに濡れて 千古の伝説をはらみ 美と力を兼ね備えた 南壁の防壁与那国島」

 石垣島出身の詩人、伊波南哲(1902~76)は与那国島を「航空母艦」に見立て、たたえた。43年、祖内の高台、ティンダバナにその碑が建立された。清らかな湧水を生み儀礼の場でもある。島の最高峰・宇良部岳は神が降りる場所とされ、拝所が各山や御嶽、家々にある。山が島の暮らしを支え、人々は船旅の無事を祈ってきた。

 その宇良部岳に42年、日本海軍の見張り所が、44年には祖納西方に陸軍小隊30人が「守備隊本部」を置いた。与那国と台湾の間の海峡では、米軍機や米潜水艦から日本艦船への攻撃が繰り返され、空襲が45年2月ごろから相次いだ。

 祖父母と暮らす入与那国(いりよなぐに)米子さん(94)=当時15歳=が友人2人と宇良部岳近くでまきを取っている時だった。ヒュー。ダダダ。機銃掃射と爆弾が降り注いだ。もう、きょうまでの命だ―。死を覚悟し、震えながら言い合った。「もし、3人のうち誰か1人でも生きられたら、家族に山にいると伝えてね」

 どれくらいたっただろう。音がやみ自宅へ走った。宇良部岳は真っ赤に燃えていた。祖納の集落もナンタ浜も。恐怖は今も目に焼き付いている。

 久部良も44年10月12日以降に空襲を受けた。全250世帯のうち半分近くが全焼し、ガマで焼死する住民もいた。

沖縄戦時の記憶をたぐり寄せながら話す玉城孝さん=5月18日、与那国町久部良

 いつの空襲か定かではないが、4歳ごろの玉城孝さん(83)が覚えているのは母の叫び声だ。「ひんぎるよ(逃げるよ)、ひんぎるよ」。防空ずきん代わりに毛布で頭を隠し、母とガマへ必死に逃げた。ガマから外をのぞいた。バラバラバラと音を立てて周回する米軍機が見えた。「怖いという感情はなかった。幼くて訳がわからなかったのかもしれない」。それでも母の言葉は耳に残っている。「命を大事にしないと」

 ガマでの長期生活を余儀なくされた住民にマラリアが広がり、366人が命を落とした。

 戦後79年の今、米中対立を背景に次々に自衛隊が配備。ミサイル部隊も予定される。豊漁や繁栄をもたらす海で再び軍事的緊張が高まる。伊波南哲が「航空母艦」と称した島は、80年余を経て現実となりつつある。

 “国防”は祈りの場の存続も脅かす。町や町議会は有事を見据え、比川へ特定利用の指定に基づく新港湾整備を国などに要請している。入与那国さんによると、港湾が計画されるカタブル浜は、染織した布を洗う場所で、神をまつる香炉もある。霊の源郷とされ湿原の東側に葬地もあった。

 離島苦に直面してきた住民にとって国や国防に意見が言いづらい雰囲気があるという。玉城さんは「陸海空(自衛隊)が一体化するのではないか」と懸念する。

 神への祈りと共にあった島の暮らし。「神聖な場所を壊したら大変だ。港やあれこれ造らせたら戦争のもとにもなる。二度と戦争をしないようにしっかりやってちょうだい」。入与那国さんは願っている。

(中村万里子、照屋大哲)