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現在の基地強化、土地規制「戦前と同じ」 住民を動員し厳しく監視「軍機を語るな」 <国防が奪った 沖縄戦79年>5


現在の基地強化、土地規制「戦前と同じ」 住民を動員し厳しく監視「軍機を語るな」 <国防が奪った 沖縄戦79年>5 「戦争は二度と起こしてはならない」と言葉に力を込める新田宗信さん=18日、北谷町吉原
この記事を書いた人 Avatar photo 金盛 文香

 1943年夏、読谷山(当時)、嘉手納、伊江で陸軍飛行場が着工されたものの、沖縄戦を指揮した第32軍が44年3月22日に創設されるまで完成しているのは皆無だった。4月1日、32軍は工事を担う部隊に次の指令を出す。「全力ヲ尽シ急速ニ飛行場設定ヲ完成スルコト」。沖縄での陣地構築は本格化し、小学生も含めて住民は「根こそぎに動員」される。

 北谷村(当時)の北玉国民学校3年生で、当時8歳の新田宗信さん(88)は建設に使用する小石や芝生を、登下校の際に集めるよう言われていた。上級生は日本軍の中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)の建設に駆り出されていた。

 新田さんも中飛行場の陣地構築に協力した。「どこにどう造ったかを話してはいけなかった」。軍機保護法下で厳しく監視され「軍機を語るな」のスローガンも掲げられた。住民は口を閉じることを強いられた。

 夏ごろに北玉国民学校の校舎が接収され、新田さんの自宅の一部も兵舎になった。軍隊との距離が近くなると、監視体制はより強まったと感じた。

 公民館が校舎に代わった。愛国心や奉仕、天皇のために身をささげることなどを教える「修身」の授業時間は長くなった。しまくとぅばを使うと「きさまは非国民か」と教師にほほをたたかれた。「標準語励行」が推し進められ、皇国史観をすり込まれた。

 集落には米国のルーズベルトや英国のチャーチルに見立てたわら人形があり、竹やりで突き刺すことが登下校時の日課だった。英米への敵対心を徹底的にあおられた。

 45年4月1日、米軍が本島に上陸し、新田さんと家族は中城村瑞慶覧(現北中城村)へ避難し、4月中に米軍に捕らえられた。南部に逃げた親戚は全員亡くなった。「戦争になると人間の心じゃなくなっていく」。当時、死んだ人をかわいそうだと思えなかった。

 中飛行場は米軍嘉手納基地となった。台湾有事が強調される今、同基地は最新鋭の戦闘機や無人機の配備など機能強化が進む。土地利用規制法が施行され、嘉手納基地周辺地域を含め、新田さんの暮らす北谷町のほぼ全域は特に規制が強い「特別注視区域」に指定された。

 「基地や軍隊に近いところは制限が激しい。戦前と同じだ」。少年時代の記憶と重なり、不安は高まる。「沖縄戦は多くの住民が犠牲になった。戦争は弱い者の被害が多い。二度と起こしてはならない」。そう力を込めた言葉をかき消すように、戦闘機は爆音と共に上空を飛び続ける。

 (金盛文香)