「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは」
1944年当時、波照間国民学校1年の波照間シゲさん(86)は軍歌を高らかに歌い、集団で登校した。雨が降れば米や麦、アワ、コーリャンが実り、家畜を育て、豊かな島だった。
波照間島に軍備はなく、島の青年らは石垣島の日本軍飛行場建設にかり出された。島に軍人が来たのは45年。陸軍中野学校出身の軍曹、山下虎雄(本名は酒井喜代輔)が教師と身分を偽り、青年学校に赴任した。沖縄戦を指揮した第32軍が送った離島残置諜者だった。
3月、山下はマラリア有病地の西表島に疎開するよう住民に命じた。反対する住民には抜刀した。島の有力者にこう頼んだという。「敵が慶良間に上陸して日本軍の配置がもれたので陥落した。八重山にもおこらないと限らないので、日本全体、八重山全体のために犠牲になってくれ」。国を守るため住民の命は軽んじられ、死地へ追いやられた。
住民らは4月8日夜、カツオ漁船に乗った。当時7歳の波照間さんもいた。「シゲ、おいで」。朝、西表島に着くと、先に渡っていた母親のナヒさんが浜で手招きし、病気から守る願掛けをしてくれた。
山下を派遣した第32軍の目的は波照間の島民を監視し、少年少女らを組織してゲリラ戦を展開することだった。当時15歳の大仲シズ子さん(95)も動員された一人。住民が移動した後もしばらく島に残った。「アメリカが上陸してきても動くな、竹やりで最後まで島を守れ、と言われていた」
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西表の南風見田(はいみだ)に移った後も、山下の監視と暴力は続いた。大量発生したハエをわずかしか捕れなかった13歳の少年を殴打し、命を奪った。マラリアの死者が増える中、住民の波照間に帰りたいという懇願も拒んだ。大仲さんの弟、2歳の善榮さんも命を落とした。「とってもかわいかったんだよ」。大仲さんは涙を浮かべた。79年たっても悲しみは癒えない。
戦後、島を訪れた山下に住民は抗議文書を突きつけ「退島」を迫った。「疎開しなかったら殺された。そうでなかったら誰があんな所に行くか」。大仲さんは怒りをぶつける。
今、日本政府は南西諸島での戦闘を想定し、県外避難計画を具体化させている。優しかった母親をマラリアで失った波照間さんは願う。「苦しい悲しい体験は二度としたくない」。今年、南風見田をのぞむ波照間島の丘に慰霊碑が建立された。急激な再軍備の波に立ち向かうようにたたずむ。
(中村万里子)
沖縄戦では「国防」が掲げられた末、県民の命、食料や土地、文化などが奪われた。台湾有事が強調され、南西諸島で軍備強化が進む中、その実相を見つめる。