1945年、日本軍に疎開を強いられた波照間島の住民。8月に西表から波照間に戻って待っていたのは、食料不足とマラリアによる“地獄”だった。
疎開にあわせ、軍が波照間島のほぼ全ての家畜を接収した。食肉処理業者が牛や豚、鶏などをつぶし、くん製にして軍に送っていた。島に戻った住民はソテツを食べて命をつないだ。栄養不足の中、マラリアがまん延していく。
「体がぶるぶると震え、髪の毛が抜け、肝臓が腫れ上がった」。当時15歳の大仲シズ子さん(95)は高熱の中、家に生えている桑の木まではっていき、地面に落ちた実を拾って食べ、おなかを満たした。8歳になった波照間シゲさん(86)もマラリアに感染した。看病していたシゲさんの母親も感染し、豊年祭の拝みをした後、亡くなった。40代半ばだった。島民のマラリアによる死者は552人、戦没者の93%を占めた。
毎日多くの遺体が墓に運ばれた。波照間さんにはその光景が焼き付いている。「むしろから突き出た足を見た。本当にかわいそうだった」。一家全滅もあれば、17人のうち1人だけ生き延びた家族もあった。墓地は満杯になると、遺体は島北側のサコダ浜に埋められた。
今、79年前の戦争を思い起こさせる出来事が波照間島で起きている。石垣島で陸自駐屯地が開設された後、800メートルの滑走路を持つ波照間空港でも、政府が進める「特定利用空港・港湾」の候補として滑走路延長の整備案が浮上した。有事で自衛隊の利用が前提だ。政府は戦闘を想定した避難計画の策定を進める。
5月の波照間公民館の定期総会で、住民は賛成多数で滑走路延長を否決した。「戦争につながる空港にしたくない」などの声が挙がった。自衛隊がミサイルを配備し、増強を重ねるほど、戦争体験者らは懸念を強めている。日常を地獄に変えた国防の記憶が、波照間島をのみ込もうとする“再軍備”を押しとどめようとしている。
波照間さんは無邪気に軍歌を歌い、日本が勝つことを信じて疑わなかった。国防を掲げた戦争は、母親や住民の大勢の命を奪った。「なぜたくさんの人が亡くならなければならなかったのか。もうやりたくない。ミサイルも戦争の始まりになるから置かない方がいい」と力を込める。
今年、住民らは「波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑」を島に建立した。戦争マラリアの悲劇を忘れないようにと疎開当時、波照間国民学校の識名信升校長が疎開地の岩に刻んだ「忘勿石(わすれないし)」の思いを今に伝える。碑文には決意が刻まれる。「私達は、この史実を決して忘れてはならない」。国を守るとうたい、少数を犠牲にした「史実」を繰り返すのか―。碑は今に問いかける。
(中村万里子)