prime

「死ぬのは名誉」実態知らされず 教育、国に尽くす子を作る場に<国防が奪った 沖縄戦79年>2


「死ぬのは名誉」実態知らされず 教育、国に尽くす子を作る場に<国防が奪った 沖縄戦79年>2 戦時体制下の教育や戦争体験について語る翁長安子さん=那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1938年、那覇市の真和志小学校。3年の翁長安子さんが教師に聞いた。「あれ、なに?」。役場職員が白木の箱を抱え、立っていた。「兵隊さんがお骨になって帰って来たのよ」

 教師の答えに翁長さんは「なんで?」と聞き返した。「天皇陛下のために死んだら靖国神社にまつられるのよ」

 37年に日中戦争が勃発。教育は、国に尽くす子どもを育てる場となった。天皇の戦争で死ぬことは名誉だ、と。

 石垣島で育った当時8歳の徳山昌子さん。「勝った勝った」。「南京陥落」のちょうちん行列に、理解しないままついて歩いた。戦争の実態は伝えられず、日中戦争は泥沼化。41年には日米開戦に至る。

 「必ず勝つと教えられ、日本が勝った報道しかない。自分のところに戦争が来るとは思いもしなかった」

 42年、八重山高等女学校に入学。やがて竹やり訓練、防空壕掘り、飛行場建設の作業が増えていく。45年2月、徳山さんら4年生約60人は看護を教えられ、軍の病院に配属された。軍命だった。

 一高女生だった翁長さんは首里の郷土部隊・通称永岡隊に入った。父親に「一緒に逃げよう」と言われても固辞した。「非国民になる」

「青春を語る会」の活動などについて振り返る徳山昌子さん=5月28日、西原町

 教育は子どもたちを戦場に引きずり込んだ。県立第一高等女学校2年、軍国教育を受けた15歳の翁長安子さんは、首里の郷土部隊に入った。45年5月、首里にすさまじい砲爆撃が降り注ぐ。沖縄戦を指揮した第32軍司令部壕があり、標的にされた。司令部は南部に撤退しても、翁長さんのいた永岡隊は最後まで首里を守るよう命じられた。

 翁長さんは壕から転落し、けがを負ったが部隊を追った。「国のために死ぬ」。しかし、合流した隊長の言葉が生きることの意味を気付かせた。「生きて、この戦を伝えるんだ」。思いを託すように数珠を翁長さんの首にかけた。

 45年3月、八重山高等女学校4年、16歳の徳山昌子さんは、石垣国民学校を接収した陸軍病院に配属された。麻酔もせずに手術をする様子に目を背けると、軍医から「それでも看護婦か」と怒鳴られ、薬室勤務に回された。頻繁にある激しい空襲のたびに学校周辺の墓に身を隠した。

 同級生から死者が出たのは8月1日。重症患者の多い野戦病院に配属されていた崎山八重さんがマラリアで亡くなった。16歳だった。徳山さんは終戦まで崎山さんの死を知らず、15日の敗戦も伝えられた記憶はない。9月ごろ、軍のトラックで於茂登岳を下りた。

「青春を語る会」では教科書やオスプレイ配備反対などさまざまな問題に取り組んだ。手前左から2人目が徳山昌子さん=2013年、4月19日

 終戦直後、翁長さんら真和志村(現那覇市)の村民らは一時期、最後の激戦地となった米須(現糸満市)で暮らした。多くの遺骨が野ざらしになっていた。翁長さんは同世代の友人の遺骨をその家族と捜し続けた。

 教員となり、アジア太平洋戦争を学び直す中で、日本がアジア侵略を言い換えたごまかしや、子どもを死に追いやった過ちに気付いた。

 「戦争を進める仕組みに乗せられていた」。国のために死ぬことが正義だと信じ込まされていた過去を振り返る。戦争にあおられた当事者として、自身の体験を講演などで語り続ける。反中感情があおられる今、翁長さんは政治に敏感になってほしいと話す。「無関心じゃだめだ。政治家がやることを見て意思を示していかないと」

 徳山さんは、九つの女子学徒隊を束ねた「青春を語る会」(99年発足)への参加を通し、自らの体験を見つめ直した。会は元学徒らが90歳近くになる2016年まで続いた。「私たちのような戦争のある人生を歩まないでほしい」―。思いを一つに、歴史教科書修正や基地問題に声を上げ続けた。

 今、戦前の潮流が強まっていると感じる。今年、皇国史観に沿った「令和書籍」が中学校歴史教科書の検定で合格。沖縄戦の旧制中学校・師範学校生の戦場動員を「志願というかたち」と記した。徳山さんは「殉国美談にしたいのでしょう。学校で先生たちが教科書を本当のことだと思って教えることが怖い。どうか私たちの活動を水の泡にしないで」と懸念する。

 二度と国のために命をささげる世の中になってほしくない―。軍国教育を受けた元学徒らは、体験からの教訓を受け継いでほしいと願う。

(中村万里子)