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80年間、米軍に踏みつぶされ続け… 嘉手納爆音訴訟団・新川秀清団長(87) 10・10空襲の日に降下訓練<“新しい戦前”にしない 沖縄戦79―80年>


80年間、米軍に踏みつぶされ続け… 嘉手納爆音訴訟団・新川秀清団長(87) 10・10空襲の日に降下訓練<“新しい戦前”にしない 沖縄戦79―80年> 10・10空襲を「戦争に突き進んだ日」と話し、「新たな戦前」への危機感を語る新川秀清さん=10日、沖縄市の第4次嘉手納爆音差止訴訟原告団本部
この記事を書いた人 Avatar photo 金盛 文香

 1944年10月10日の10・10空襲。住民が見上げた空には米軍機が飛び、爆弾が降り注いだ。80年後の10日、米軍は中止を求める住民や周辺自治体の声を無視し、嘉手納基地でパラシュート降下訓練を強行した。見上げた先には米軍機が飛び兵士が降りてきた。「80年間、米軍に踏みつぶされ続けている」。第4次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団の新川秀清団長(87)はそう語る。10・10空襲を「戦争に突き進んだ日」と話し、近年の嘉手納基地の機能強化に「新たな戦前」を感じている。

 新川さんは旧越来村(現沖縄市)仲原出身。10・10空襲の時は越来国民学校の2年生だった。登校準備中に空襲警報が鳴った。日本軍の演習だと思ったが、木に登って中飛行場(現米軍嘉手納基地)をのぞいた大人が「壕に逃げろ」と叫んだ。家族と一緒に自宅の壕に逃げ込んだ。

 その日から学校でも戦争に向けた準備が進んだ。空襲の避難訓練や、校庭で腕立て伏せをさせられ、校舎も日本軍に接収された。45年3月末、空襲や艦砲射撃が激しくなると自宅近くの頑丈な壕や知人の墓に逃げた。

 米軍上陸後の4月3日、隠れていた墓に米軍がやってきて、中にいる人に向かって銃撃した。隠れていたのは女性や子どもばかり。2人が亡くなり、うち1人は三つ年上の子どもだった。その場で米軍に保護された。

 その後、約1年間は収容所を転々とした。旧越来村に戻る頃には、米軍の土地の強制接収で故郷の仲原は跡形もなくなっていた。現在も嘉手納基地内にあり、いまだに戻ることはできない。

 10・10空襲では県内全域が無差別に攻撃された。新川さんは「10日を境に、ありったけの地獄を詰め込んだ沖縄戦に放り込まれた」と話す。「米軍は沖縄でしてきたことを意識しているのか」。10日の降下訓練実施に怒りが湧く。

 降下訓練に加え、外来機の飛来・騒音、無人機の配備と嘉手納基地は機能強化が進む。「基地被害を受けてきたわれわれの、負担軽減という願いとは逆だ。新たな戦争に突き進むのではないか」。80年前の「戦争が来た日」を重ね、不安を語った。 

 (金盛文香)