戦前、大宜味村の喜如嘉国民学校の敷地にはホウセンカやダリアなどの花々が咲いていた。やがて、戦況と共に花は消え、換わりにイモが植えられた。同校に通っていた平良俊政さん(93)も畑を耕す大人たちを見ていた。
戦局悪化で県外からの物資補給が海上輸送で困難になると、1944年3月22日に編成された第32軍は指揮する沖縄で「現地自給」を基本方針とし、軍用食糧まで住民から供出させた。役場を通して各字の区長に割り当て、役場がまとめて駐屯部隊に納めるようにした。住民にとって割の合わない価格で引き取られた。見込みよりも供出物が少ない時には軍人が抜刀して脅すこともあった。当時、県民自身が食糧不足にあえいでいた。
44年頃、喜如嘉国民学校高等科1年生の平良さんは他の子どもとともに、堆肥作りにかり出された。その作業は大変だったが、少しでも作業を楽しくしようと「『草刈りスーブ(勝負)』をして、他の子どもたちで競い合った」
米軍による艦砲射撃が始まった翌45年3月、平良さんら住民は山中に避難した。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。軍国主義教育を受け、天皇のために死ぬのは当たり前だった。平良さんは「兵士という気持ちがあった」と振り返る。自ら進んで集落の監視役に就いた。山頂付近から集落を進む米兵の様子を監視した。監視役には青年団員などもいて、一緒に日本兵への伝令をしたこともある。
監視役には2~3日に1回、小さなおにぎりがザルなどの容器で運ばれてきた。出どころは知らないが、丸く握られたおにぎりには、塩や具材は一切入っていなかった。だが、口にした時に「本当においしかった」と幸運をかみしめた。おにぎりは米軍に保護されるまで続いた。一方、山中には中南部から逃れてきた避難民も多く潜んでいた。
7月に入り、米軍に保護された後、山中で日本兵による住民からの食料強奪が相次いでいたと聞いた。「もしかするとあのおにぎりは、日本兵が配っていたものだったのでは」。そう思うと「ぞっとした」。自分は幸運と考えていたが、誰かはひもじい思いをしていたのかもしれない。体が震えた。
今月14日の参院本会議で「食料供給困難事態対策法」が政府与党の賛成多数で可決、成立した。同法は有事や食料危機などの際、政府が農家に対して転作や増産の指示を出す。指示に従わない場合、罰金も科す。有事の際、農水省は花き農家にイモの作付け指示もできる。本島北部の花き農家の30代男性は「法律の成立そのものを知らなかった。まるで戦前のようだ。徴兵ではないが、農家は食料を作れと強制するのか」と不安を口にした。平良さんも戦前の食糧増産と重ねる。「今頃こんなことをやるのか。そもそも畑が少ない中でどうするのか」
毎年4月になると、喜如嘉では紫色の花、オクラレルカが辺り一面に咲き誇る。風にそよぐ花々は平和の意味を見る者に問いかける。
(玉寄光太)