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「基地あれば攻撃の的に」 死者数違う「津堅」と「宮城」 軍の存在、運命の分かれ道に<国防が奪った 沖縄戦79年>3


「基地あれば攻撃の的に」 死者数違う「津堅」と「宮城」 軍の存在、運命の分かれ道に<国防が奪った 沖縄戦79年>3 沖縄戦当時を振り返りながら、「基地があると攻撃の対象となる」と語り、自衛隊の増強に反対の意思を示す根保幸德さん=うるま市宮城島
この記事を書いた人 Avatar photo 吉田 健一

 1944年10月10日、沖縄本島の東にある宮城島沖合。米軍機が投下した爆弾で海上のマーラン船が爆発炎上した。当時11歳の根保幸德さん(90)は、うるま市宮城島の待避壕に祖父母ら5人で避難していた時に目撃した。「戦争の恐ろしさを初めて見せつけられた」瞬間だった。

 干潮時になると、宮城島のイノーでクサバー(ベラ)を釣ることが何よりも好きだった。のびのびとした島の暮らしが変わり始めたのは、根保さんが宮城国民学校2年生だった41年ごろ。この年、日米が太平洋戦争に突入した。

 教科書も改訂され、国史や修身が重要視された。皇民化教育の一環でしまくとぅばの使用も禁止された。「私はクラス委員を務めていた責任感から、学校では標準語を使うようにしていた。友人はよく罰として方言札を首からかけていた」

 軍国主義の影は日を重ねて濃くなった。学校には兵士が出入りし、校長や担任は、戦死して「軍神となった兵士」の話を伝えた。学校敷地内に待避壕がつくられ、防空訓練も頻繁に行われた。

 蓄音機から流れた軍歌を聞き、昼食にイモを食べた。耳にこびりついているのは「海ゆかば」。戦死した兵士を天皇のために殉死したとたたえる歌で、根保さんも「いつのまにか天皇のために死ぬことを当たり前と思い、日本兵に憧れた」。

 共同売店にあった時報用の鐘や女性が身に付けていたジーファーなどの金属類を武器製造で供出させられ、住民は飛行場建設に徴用された。

 44年、伊計島に日本軍の砲兵一個大隊が駐留した。大隊はしばらく駐留した後、約14キロ離れた津堅島に移動した。一方、津堅島から約10キロ離れた宮城島にも当初、部隊がいたが、その後移動し軍隊がいない島となった。

 軍の存在が運命の分かれ道となる。

 津堅島は本島東海岸の離島で唯一、地上戦があり、島内の家屋など施設全てを焼かれた。義勇隊として徴兵された住民を含む100人超が戦死した。

 宮城島も45年に入ると空襲が頻発した。空襲のたびにホージガマといわれる幅4メートル、長さ30メートルほどの天井の低い自然壕に避難した。「息苦しいガマで、いつも今日死ぬんじゃないかとおびえていた」と根保さん。島では空襲で住民1人が命を落とした。

 5月に入り、宮城島に日本兵が潜伏していると米軍が聞きつけ、住民を平安座島に強制移動させた。食料不足で住民の多くは米軍に見つからないよう宮城島や勝連半島に渡り食料を確保した。その時、宮城島で女性1人が米兵に撃ち殺された。

宮城島で軍票を使って買い物する米兵=1945年4月(沖縄県公文書館所蔵)

 根保さんは死者数の違いに「軍の有無が二つの島の生死を分けた」とみている。戦後79年。沖縄は再び軍備の影が濃くなっている。根保さんは戦後、小・中学校の教員として子どもたちに戦争体験を語り、「平和を保つには国と国との信頼関係が一番だ」と伝えてきた。宮城島や津堅島の沖縄戦を振り返り強調した。「軍がいたがゆえに津堅島の住民は命が奪われた。基地があると攻撃の的になる」

 (吉田健一)