1959年に沖縄県石川市(現うるま市石川)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落して30日で65年となる。ジェット機は児童や住民を巻き込み、18人(うち児童12人)が亡くなった。当時、幼稚園生で、頭蓋骨骨折の大けがを負った山本(旧姓・山城)恵子さん(71)=佐賀県=が初めて慰霊祭に参加する。山本さんは事故の記憶がほとんどない。「私に何があったのか知りたい」。29日、山本さんと当時の同級生が集まり記憶をつなぎ合わせた。
山本さんは事故の時、外にいたことは覚えているが、それ以外は記憶がない。同級生や石川・宮森630会の久高政治会長(76)から当時の説明を受け、時に相づちを打ち、質問しながら、記憶を掘り起こした。
米国立公文書記録管理局が所蔵する医療報告書には、山本さんが頭蓋骨を損傷し、陸軍病院に1カ月半ほど入院したとある。けがの影響と見られる反応があり、59年と61年に入院している。山本さんの後頭部には、その時の傷跡が残る。
娘の回復を何よりも願う父・眞盛さんの思いも、報告書に残されている。政府関係者の訪問時に「陸軍病院でなければ、娘の命は救えなかった」と語ったという。補償金の遅れについて聞かれると「自分の心配の第一は、子どもの命」と、金銭面には触れなかった。
山本さんは、陸軍病院に入院したのは「父が抱っこしてたところを米軍が通りかかった」と聞かされていたが、実は眞盛さんが米軍に頼み込んでいたことが判明した。今回、妹から真相を知らされたという。山本さんは「父に助けられた」と目に涙をたたえた。
事故の苦しい記憶から、証言を避ける人もいる。山本さんは「思い出したら証言したい。自分の中にしまっても、どうにもならない。何かに生かさないと」と、前を見据えて話した。
(玉城文)