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福島/フクシマ 沖縄/オキナワ 痛みを表現する試み 佐久川恵美(同志社大学・都市共生研究センター研究員) <女性たち発・うちなー語らな>


福島/フクシマ 沖縄/オキナワ 痛みを表現する試み 佐久川恵美(同志社大学・都市共生研究センター研究員) <女性たち発・うちなー語らな> 佐久川恵美
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 福島県出身の友人がいる。何気ないことで笑いあえるその友人は、約14年前から続く福島原発事故に怒り、悲しみ、様々な葛藤を抱いてきたのだと思う。そして福島をあえて「フクシマ」として語ることがあり、私は沖縄が「オキナワ」と表現されることに少なからず違和感があったため驚いた。

 私にとって「オキナワ」は、癒やしの島としての沖縄や殖民地支配・戦争・基地の歴史が現在に続く沖縄等、ステレオタイプ化された沖縄を思わせる言葉だった。もちろん、戦争や基地、観光地化は、私や家族の歴史に影響を及ぼしているものの「オキナワ」だけでは表現できない面もある。だからこそ「フクシマ」と表現する友人の想いを考えたかった。

 年齢、性別、地域等あらゆる違いによって福島原発事故の被害は一人ひとり異なるが、現在、事故や被曝(ばく)について語ることがタブー視され、被曝の不安を口にすると「無知」「偏見」「差別」と非難される状況がある。

 そのなかで友人は「ヒロシマ、ナガサキには反核のスローガンが含まれていて、被曝の問題が消されないために私はフクシマと言う」と語った。友人は、原発事故だけで故郷を表すような「フクシマ」に批判的な人たちの気持ちも知りながら、それでも「ヒロシマ」「ナガサキ」の議論の蓄積を頼りに、原発事故の被曝について語れる場をつくろうとしてきたのではないか。

 友人が朝来縷々(あさきるる)の名で執筆した小説『黒鹿毛のひと』でもその試みがなされている。福島県沿岸の町で、原発で働く家族と過ごす少年と、牧場を経営する幼なじみ家族との日常、動植物と共にある生活、地域の民話や祭り等。事故前の暮らしや景色が、後世に伝える記録のように物語に織り込まれている。そして事故による被害が次第に複雑化する様も誠実に描かれている。朝来は小説を通して痛みを表現できる場をつくり出そうとしているのだろう。

 痛みや被害を表現することが阻まれると、被害が無かったことにされるだけでなく、被っている痛みを思考する機会や他者に訴える言葉すらも奪われる。そして分かったように説明する言葉が当てはめられ、自分が体験したことや歴史が別物にされ、さらなる痛みが襲う。しかし表現していないように見えても、たどたどしい言葉だったとしても一人ひとりには表現する力がある。人々の想いは一方的に抑えつけられるだけでは終わらない。

 それならば私は私の体験を、私が感じてきた沖縄をどう語っていけるだろうか。


 2024年度上半期の執筆陣による連載終わり。10月から新しい執筆者が担当します。

佐久川恵美 さくがわ・えみ

 1989年生まれ、那覇市出身。同志社大学・都市共生研究センター研究員。主な論文に「福島原発事故における線引きを問う」(共著・ハングル訳「境界における災害の経験」亦樂出版社)などがある。