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訓練、陣地構築に追われ 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>4


訓練、陣地構築に追われ 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>4 那覇市立商工学校があった那覇市若狭。手前は夫婦瀬公園
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金城重正さん(93)=那覇市=は1944年4月、小禄国民学校を卒業し、那覇市立商工学校(現在の那覇商業高校)に入学します。当時の学校の場所は若狭の海岸沿い、現在の那覇中学校のあたりです。海辺には「夫婦岩」(ミートゥジ)が見えました。

 金城さんは「早く中学校に入学したいという思いで、毎日懸命に勉強した」といいます。志望校は県立第二中学校でしたが、「商業に行きなさい」という父・重雄さんの要望で商工学校を選びました。

 進学したものの、金城さんは間もなく軍事訓練や陣地構築に追われるようになり、授業どころではなくなります。

 《午前中は科目の勉強で、午後になると配属将校の下で軍事訓練ばかりであった。さらに午後3時ごろには陣地構築に駆り出された。那覇飛行場、浦添の仲西飛行場、天久の上之屋砲台、ガジャンビラ砲台。学校は日本軍の宿舎になった。》

 真珠湾攻撃で始まった米軍との戦いで日本軍は劣勢に立たされていました。「サイパンや東南アジアで日本軍はどんどん負けていった。残念に思ったが口には出せなかった。日本軍に協力しなければならないという思いだった」と語ります。

 戦争の行く末に不安を募らせている時、金城さんは10・10空襲に遭遇します。