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校舎焼け牧志ウガンで授業 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>6


校舎焼け牧志ウガンで授業 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>6 10・10空襲後、生徒が集まった牧志ウガン
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 那覇市若狭にあった那覇市立商工学校(現那覇商業高校)は1944年10月の10・10空襲で焼失しました。この学校の1年生だった金城重正さん(93)=那覇市=ら生徒は校舎を失ってしまいます。

 「那覇商百年史」(那覇商業高校、2006年)によると、学校は生徒を集め、牧志ウガンのガジュマルの木の下などで授業を再開します。金城さんは空襲から数日後に呼び出しがあったと記憶しています。

 《学校も焼けてなくなったので、学校出席は牧志ウガンのところになった。15人くらい集まるといい方だった。》

 授業らしい授業はできず、金城さんは「もう日本も沖縄もだめだ。どうしたらいいのか。もう軍に協力するよりないな」という心境になっていました。

 「沖縄戦の全学徒隊」(ひめゆり平和祈念資料館、2008年)によると44年11月中旬、第32軍司令部から2人の将校が訪れ、2年生を対象に通信訓練を始めます。「那覇商百年史」によると年明けの45年2月ごろから1年生も訓練を受けます。生徒の訓練はその後、本格化します。

 《今後は日本軍に協力するので参加するよう命令が出て、首里の本殿に出席するよう命令が出た。》

 「本殿」は首里城正殿のことです。1925年、沖縄神社が創建され、首里城正殿が神社の本殿となります。