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10・10空襲で母校焼失 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>5


10・10空襲で母校焼失 金城重正さん(93)戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>5 那覇バスターミナル内に残る那覇駅の遺構
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1944年10月10日朝、金城重正さん(93)=那覇市=は小禄村(現那覇市)具志の家を出て、若狭にあった那覇市立商工学校に向かいます。

 那覇港入り口にあった県立水産学校(現県立沖縄水産高)付近から出ていた渡し船に乗って通堂町側へ行く途中、空襲に遭います。

 《10月10日の朝、家を出て、学校に行くには近道がいいと考え、水産学校近くで渡し船に乗って那覇港の真ん中に来た時、空襲が始まった。日本軍の演習と考えていたら、隣の方が「アメリカの飛行機だ」と言い、早く着くように急いだ。》

 渡し船は現在、通堂町にある沖縄製粉あたりに着きます。金城さんは沖縄県営鉄道の那覇駅(現那覇バスターミナル)構内の防空壕に避難します。その後、がじゃんびらを上って具志の家に戻ります。

 《今の製粉会社のところで上陸し、汽車駅の壕に避難した。午前10時ごろ空襲が止まった。壕を出て、明治橋を渡り、現在の陸上自衛隊のところに来て市内を見ると、大きな火災になっていた。》

 この空襲で那覇市立商工学校も焼けてしまいます。

 「具志字誌」(2019年、具志自治会)によると具志集落は焼夷弾による家屋の火災はありましたが、犠牲者は出ませんでした。金城さんの家族も防空壕に避難し、無事でした。