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父が防衛隊として戦場へ 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>9


父が防衛隊として戦場へ 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>9 現在の名護市数久田の集落
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 那覇市立商工学校の1年生で日本軍の通信隊の一員として識名に動員されていた金城重正さん(93)=那覇市=は、自宅があった小禄村(現那覇市)具志に駐屯していた海軍部隊の隊長の計らいで1945年3月末、家族がいる名護町(現名護市)に避難します。親類も一緒でした。

 第32軍の要請で45年2月に県がまとめた中南部住民の北部疎開計画では小禄村民の疎開先は名護町に指定されていました。受け入れ人数は4400人です。

 「具志字誌」(具志自治会、2019年)などによると具志住民の疎開は2月に始まり、3月末までに名護の数久田や幸喜、許田などに疎開しています。

 同時に防衛隊などとして住民は戦場に駆り出されます。金城さんの父、重雄さんもその一人でした。当時、40歳を超えていました。父の動員について金城さんは「当時は当たり前という気持ちだった。悲しいということはなかった」と回想します。

 数久田までの移動に徒歩で3日かかりました。

 《やんばるへの道路は避難民でいっぱいだった。恩納村で米軍のグラマンの機銃攻撃を受け、数十人の方々が死んだ。避難中に私も首の後ろ、左足の上に傷を受けた。》

 金城さんは数久田で母の静さんや弟らと再会します。その後、沖縄本島に上陸した米軍の侵攻から逃れ、山中をさまよいます。