prime

古我知で戦後の一歩記す 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>11


古我知で戦後の一歩記す 金城重正さん(93) 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>11 現在の名護市古我知。米軍によって多くの住民が集められた
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 小禄村(現那覇市)具志から名護町(現名護市)数久田に疎開し、山中を逃げ回った金城重正さん(93)=那覇市=は1945年6月、久志岳付近で米軍に捕らわれ、羽地村(現名護市)古我知で戦後の第一歩を記します。

 古我知は、米軍が羽地村に設置した田井等収容地区に含まれていました。米軍に捕らわれていた大勢の住民が田井等収容地区で暮らしていました。45年8月時点で約6万4千人が収容されていました。

 古我知でも住民の安全は保障されていません。女性が被害者となる米兵の事件も起きたといいます。収容地区でも住民は不安な日々を送っていました。

 《6月末頃、捕虜になり羽地に連れて行かれた。羽地は米軍の捕虜の集合場所になっていた。羽地の古我知で終戦後の生活が始まった。テント小屋で米軍による事件もあり、大変だった。》

 米軍の車両で友人と共に小禄に戻ることもありました。現在の那覇市田原で食料を探しました。

 《友人と米軍の車に乗って小禄に帰った。物探しのため田原に着き、日本軍の通信施設のあった場所で物探しをして、宿泊をしていた。戦闘が終わり、周辺は死人でいっぱいだった。》

 小禄では2カ月ほど滞在し、再び古我知に戻ります。家族がそろって小禄に戻るのは翌年のことです。