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県系人の足跡たどる、幻のハワイ移民史発見 養豚、製糖、レストラン経営… 1世の苦難と功績刻む <沖縄DEEP探る>(1/2ページ)


県系人の足跡たどる、幻のハワイ移民史発見 養豚、製糖、レストラン経営… 1世の苦難と功績刻む <沖縄DEEP探る>(1/2ページ) 「ハワイの玄関ー美しのホノルル」との説明で紹介されているホノルルの港町(和歌山市民図書館所蔵))
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

124年前、沖縄県民が初めて移民として渡った島・ハワイ。移民1世が降り立った1900年から約40年間の、県系人の暮らしぶりや沖縄移民社会が分かる著書「布哇(ハワイ)沖縄県人発展史」(親泊義良著、編集・カウアイ沖縄県人連合協会)が、和歌山市民図書館で保管されていることが県立博物館の調査で分かった。著書は1941年に日本で発刊されたが、戦火によりハワイに届くことはなく、存在が知られていなかった“幻の著書”。州知事を輩出するほどハワイの地に定着した県系人の礎や足跡をたどることができる。

「ハワイ沖縄県人発展史」の複製本。移民一世伝記には、名前や出身値だけでなく移民後の職業遍歴や一部写真もある=19日、那覇市の県立図書館

移民の歴史

戦前、日本からサトウキビ産業の労働者として多くの移民を受け入れていたハワイ。沖縄からは1900年1月に26人が上陸し、白人が経営するサトウキビのプランテーション(大規模農園)で契約労働者として厳しい肉体労働に従事した。03年には第2回ハワイ移民として、海外移民の父・當山久三が率いる40人が来島。以降、沖縄からの移民は増え続け、戦前は2万人もの県民がハワイに移住した。

発展史では1世の苦闘から、多方面の産業で活躍し始めた2世の様子までが描かれている。移民初期40年間の記録として、第1回移民の紹介、當山久三の功績、ハワイ沖縄県人会の歴史などを記している。

産業・分野別で活躍する県人も紹介。製糖業をはじめ養豚、ハワイの公立学校で働く教師、旅館、ソーダ水生産、医者、スポーツ選手など、多岐にわたる活躍が分かる。店を経営する県人の氏名や店名、出身地・所在地も記載。40年間の情勢や各産業でどのように成功したのかも書いている。

そのほか、県人3542人の住所録や62ページにも上る広告が掲載されており、県人の情報を幅広く網羅した内容になっている。

1世の暮らし

「個人紹介」は約270ページに上り、1世を中心に596人とその家族のことを記している。各個人とも生年月日と出身地、いつハワイに来てどこに住み、どのような職業に就いたか、誰と結婚し子どもが何人いたか、子の結婚相手が誰か、などを定型的に紹介している。

凡例では「人物紹介はビジネス的オベッカ筆法を排し各人の履歴を簡単に記載した。饒舌(じょうぜつ)的紹介はいたずらに世人の嘲笑を買うのみで、具眼の士(物事の本質を見抜く目を持っている人)にはこれが人生の真実をくみ取るに役立つと思うのである」と書いており、基本的に平等な目線で記したことが分かる。


知念樽という人物についてはハワイ市で養豚業を営み経済的に成功したと紹介。1886年9月に北谷村(当時)で生まれ、1906年にハワイに移り住んだ。オアフ島で12年間耕地労働者として働き、養豚業者として独立後、業を広げて2エーカーの土地に豚舎を建築。「子女たちの援助により事業はますます大繁盛である」と強調している。

養豚業で成功を収めた知念樽氏とその家族(和歌山市民図書館所蔵)

基本的に世帯主の男性を中心に記載しているが、離婚や死別した場合など、女性を取り上げている事例もある。

ホノルル市で「スイートカフェー」というビアホールを経営していると紹介されているのは糸数実登という女性。「3人の雇用人を有し商売は非常に繁盛している」と成功ぶりをたたえている。長男が明治大学の2年生で夏休みを利用してハワイに来たことや、妹たちがハワイの高校に通って勉学に励んでいる様子などを伝えている。