【島人の目】苦渋の選択


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 ロマン・ポランスキーの名を記憶している人も多いだろう。彼の人生は栄光と挫折の繰り返しであった。1969年、マンソン・ファミリーによって惨殺された女優シャロン・テートの元夫で、77年13歳の少女に淫行(いんこう)を働いたとしてロサンゼルスの裁判所から結審の召喚状が送付されたその日にロンドンへ逃亡。その後出生国のフランスへ渡り、米国からは逃亡者としてブラック・リストに記載されたままである。

 2002年フランスで「戦場のピアニスト」を制作、アカデミー監督賞を受賞した。しかし、米国に入国できず、友人の俳優ハリソン・フォードがフランスまで出掛けてオスカー像を渡した。
 33年、ポーランド出身の父親とロシア出身の母親との間にフランスで生まれた。両親はナチの迫害から逃れるためフランスへ渡ったが強制収用所に入れられ、母親はそこで死んだ。青年のころから映画に興味を抱き、20代で多くの映画に俳優として出演、40代で監督、プロデューサー兼俳優として映画制作に取り組んだ。68年にハリウッドへ進出、「チャイナタウン」など多くの作品を発表後、例の事件を起こした。
 あれから30年余りたった今、彼は淫行事件の訴追取り消しを要請した。当時13歳の少女は既に2人の母親。「罪状を許してもいい」とコメントしている。しかし、米国は強力な裁判制度を持つ。米国に足を踏み入れた途端、逮捕が待っているというのが専門家の意見、とLAタイムズは伝えている。世界を目指す者は米国を選ぶ。ポランスキーも例外ではないが、苦渋の選択であろう。
(当銘貞夫、ロサンゼルス通信員)