【ボリビア】秋言葉にまつわる話


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、黄葉、もみじなどというたおやかな秋の言葉はない。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。

 イタリア人に限らず西洋人は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細には反応しない。言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚介類をひとまとめにして「フィッシュ」つまり「魚」と呼ぶことが多い。日本語で貝やタコを「魚」と言ったら気がふれたと思われるだろう。
 多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化がある。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
 もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解はわれわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。パスタなどにも日本人には考えられない彼らの豊かな思いや情感があり、それに見合ったさまざまな言い回しやレトリックがある。さらに言えば近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を待たないところである。
(仲宗根雅則、イタリア在住、TVディレクター)