【島人の目】死者の義務


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 死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の沖縄に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびによくそう思う。これは決して死者を冒涜(ぼうとく)したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に、大きな墓地があってはならない。

 沖縄の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。
 僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥(おい)っ子や姪(めい)っ子たちが使えばいい。日当たりの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわせてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。
 僕は最近母を亡くした。母の亡き骸(がら)は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない祖霊となって僕の中にいるのである。御霊(みたま)が墓地にいると考えるのは死者への差別である。われわれが生きている限り御霊も生きている。生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。
 僕と共に生きている母はきっと生者に道を譲る。母の教えを受けて母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見えと欺瞞(ぎまん)にすぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。
(仲宗根雅則、イタリア在住TVディレクター)