【島人の目】「おけい」と沖縄


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 15年前のことだ。福島県人会の人たちと一緒にサクラメント近くのゴールドヒルの「140年前に建立されたおけいの墓石」へお参りに行った。
 1868年会津戦争に敗れ、新天地を海外に求めた人々が、会津藩と貿易をしていた武器商人のプロシア人、ヘンリー・シュネルに率いられた日本人初の北米農業移民団で、シュネルの日本人妻おようと娘、子守の17歳のおけいの一行であった。

 だが、希望に満ちあふれたはずのユートピア(新天地)は荒地がくわをはね返す不毛の大地、困難を極める開拓であった。その日の糧もしのげず、人の心も散り散りに山を去るものが多く出たが、おけいは泣かなかった。2年もたたないうちにシュネル家は謎の失踪(しっそう)、おけいはビアカンプ家の子守となったが、熱病に冒され19歳の一生を閉じた。日本人のアメリカ移民哀話の一つなのであろう、おけいブームが何回も訪れた。
 この物語を読んで、早大大学院で学ぶ波照間陽さんは次のような感想文を寄せた。「どこに行っても望みのない環境で、泣いていても何の解決にもならない。それなら、あれこれ考えずに黙ってその土地にとどまり、そこで歯を食いしばりながら精いっぱい生きていく。その結果が19歳という若さでの彼女の死ではないだろうか…。この想像は私にとって、おけいの生涯と沖縄が重なる。アメリカ世から平和憲法を持つ『理想的な』日本への復帰を求めた沖縄は、復帰後も日本政府の差別的待遇に長く苦しむ。どこに帰属しても報われることのない小さな島で、人々はできる限りのことを精いっぱいやり通そうとする。私もそのうちの一人になりたい。ウチナーンチュの希望を捨てたくない。沖縄を短命で終わらせたくない。私はそういう内なるエネルギーを持って研究しようとしているのです」と。
 歴史に翻弄(ほんろう)されながらも決して涙を見せなかった沖縄の人々に幸薄き少女おけいの生涯を重複させ、沖縄のため精神的支柱になりたいと意欲に燃える陽さんにエールを送りたい。
(当銘貞夫、ロサンゼルス通信員)