【島人の目】許すということ


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 イタリア人の僕の妻も実家の人々も皆敬虔(けいけん)なキリスト教徒である。僕はキリスト教徒ではないが、イタリアにいる限りは妻や家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように実践してきた。

 長い間キリスト教の教義に接してきた中で見た美点の一つは「許し」の観念である。「過ちや罪や悪行を決して忘れてはならない。しかしそれは許されるべきである」という教えは、キリスト教の最重要な理念の一つである。異端者の僕だがこの戒めには非常に深い敬意を覚える。
 われわれ日本人はどちらかというと許すことが不得手な国民である。国民の8割が死刑制度を容認している事実ひとつを見てもそれは明らかだ。
 日々の生々しい人間関係の中では許すことができない事柄が多々ある。それどころか許すことが苦しい場合さえ少なくない。しかし「許さない」ことはもっと苦しい。それは憎しみを抱え続けることだからだ。許すことで人は相手を救い自らも救われるように思う。キリスト教ではそのことを繰り返し信者に諭す。もちろん誰もがそれを実践できる訳ではない。むしろ実践できない者がほとんどである。だからこそ宗教はあえてそのことを強調して教える。
 キリスト教異端の徒である僕は、不信心から宗教的に「許す」ことができず、さらに人間ができていないゆえにますます「許す」ことができずにいつも苦しんでばかりいる。「許さない」態度は悲しい。いつの日か許すことができる人間になりたいものである。(仲宗根雅則、イタリア在住、TVディレクター)