【キラリ大地で】アメリカ 教育一筋の35年間 ベティー・英子・平良さん


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自分で染めた紅型を紹介するベティー・英子・平良さん=ワシントンDC

 沖縄会には、すてきに年を重ね魅力あふれる人生の先輩たちがいる。その一人で、大学院で教育学を修め退職するまでの35年間を教育一筋に歩んできたのがベティー・英子・平良さん(77)だ。ベティーさんは「1世の両親は、新天地でゼロからの出発だったが夢があった。彼らの歩んで来た道は、苦労が多かったが、学問がいかに大切であるかを諭し、多大な犠牲を払い、子どもに全てを与えてくれた」と両親への感謝の思いを語る。

 父平良覚吉さんと母シズさんは、ともに名護羽地出身。ロスのリトル東京の近くに住み、覚吉さんは庭師として働き、シズさんは小さなホテルを切り盛りしていた。
 そんな家族5人の平和で安定していた生活が一変したのは、1941年の真珠湾攻撃による日米開戦の日からだった。12万人余の日本人移民と日系アメリカ人が、人里離れた内陸部の砂漠地帯などの強制収容所10カ所に隔離された。ベティーさんらが最終的に送られた収容所は米中西部ワイオミング州のハートマウンテン。そこは、冬は零下30度となる極寒の地だった。
 幸運なことに、しばらくして平良家はスポンサーになってくれる農場主、デッカート家に雇われることになり、収容所から出ることができた。ベティーさんは「戦時中、両親は敵性外国人だったにもかかわらず、自分は差別されることなく地元の白人の学校にも通い、デッカート家の友人である近所の農民らともいい関係が築けた。両親は、いつもデッカート家のおかげだと言っていた」と話す。
 その後、平良家は、沖縄出身の友人を頼ってデンバー、そしてワシントンDCへと移転する。戦後、両親は雑貨屋を営み戦前と同じ平穏な生活が戻った。
 ベティーさんは、教育者として韓国、沖縄、スペインなど海外の米軍のアメリカンスクールの教育カウンセラー、校長、教育長などの管理職に就いた。両親が亡くなった後、恩人のデッカート家との40年ぶりの再会を果たし、両親に代わってあらためて感謝の思いを伝えた。
 ベティーさんのリビングには沖縄勤務の時に沖縄の陶芸に魅せられ収集をした焼き物が飾られている。また紅型を実際に学び1枚の着物を完成させた。
 「沖縄がいかに豊かな文化をもっているか身をもって感じた。心の故郷」と笑顔を見せた。退官後は、女性有権者連盟で働き、日米協会や沖縄会でも民間大使や会長職に就くなどボランティア活動にも積極的に取り組んでいる。
(鈴木多美子通信員)