【島人の目】「つながり」


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 東日本大震災で被災者の生きる支えとなり大きな力となったのは、人とのつながりであることを痛感した。

 ある本に「アメリカは、非社交的な国で、人間同士のつながりは、80年代以降希薄化し、崩壊直前」とあった。だが、米国郊外の新興住宅地に住んでいるが、必ずしもそうではないと思う。しっかりとした自治会の様なものがあり、ハロウィーンパーティーなどの大きな催しや、月に一度のニュースレターが発刊されたり、コミュニティーだけの電話帳も毎年コピーされる。お互いに協力し、快適なコミュニティー作りを目指し、つながっていこうとする姿勢がある。
 里帰りの際、沖縄の南部に教育施設を開校したある知人女性から「地元の人との交流を望んでいるが、よそ者と見なされ仲間入りは難しい」と聞かされた。南部出身の知人は、彼女が住む町を「保守的な地域性で、新移住者は歓迎されない」と話す。友人の知り合いが沖縄に憧れて移住の夢を実現させたが、いつまでも「ヤマトゥンチュー」としか見てくれず本土に戻った話など、沖縄の排他的な一面を知り、複雑な気持ちになった。
 そんな折、南部のある集落の結婚式に参列した。花婿は、地元出身で、花嫁は、外国から嫁いで来た女性。会場には、地元の青年会と婦人会の人たちが、会場の飾り付けから宴会のセッティングまで手掛け、披露宴には、新郎の同僚や地元の老人会の人たちも参加し、余興、そして爆竹や仕掛け花火で二人を祝福した。結婚披露宴も終盤に近づいた時、参列者の一人一人が花嫁に「おめでとう」と握手をし、花嫁は歓迎されていることに感動し、異国での不安がいっぺんに吹き飛んだ様子。感激の面持ちで終始満面の笑顔であった。
 青年会のメンバーの中には、よその土地からの移住者だったり、お嫁さんのほとんどが地元民ではないと後で知ったが、全員が地元に溶け込んでいた。『イチャリバチョーデー』の沖縄の心が生きていて、豊かな気持ちにさせてもらった。糸満市賀数地域のますますの御発展を。
(鈴木多美子、米国バージニア通信員)