【キラリ大地で】アメリカ 元ワシントンDC在米日本大使館職員・上原裕美さん


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長年在米日本大使館に勤務し、日本と米国の懸け橋の役割を担った上原裕美さん

功績評価され、叙勲 「県出身者として努力」
 何事にも前向きに真剣に向き合い情熱を傾けてきた上原裕美さんはメキシコ生まれの71歳。ワシントンDC在米日本大使館の経済担当公使、そして参事官の秘書として38年間勤務し、その功績が認められ、昨年秋の叙勲で瑞宝双光章を授与された。

 メキシコで開業医をしていた父親(母親とともに旧具志川市、安慶名出身)は、第2次世界大戦勃発直前に家族を連れて沖縄に帰郷する。医者になるはずだった長兄が戦死したため、裕美さんが後を継ぐことを決意し熊本県立第一高等学校へ転校した。だが、休みで里帰りした際、父親の手伝いをするが大けがの患者を見て気絶する。その後も卒倒を繰り返したため医者への道を諦めることに。
 裕美さんは当時女子学生が少数しか在学していなかった明治大学に進学した。英語クラブに所属し男子学生と張り合った。スピーチコンテストで1位になり学校代表として六大学の英語弁論大会に出場した。スピーチの題は「太平洋に架ける橋」。裕美さんは「その時から渡米への希望の芽が吹き出していたのでは」と話す。
 大学卒業後、帰郷し幸運にも米留学試験に合格。奨学金を得て名門ジョージタウン大学の大学院で応用言語学を専攻する。奨学金は1年のみ。猛勉強の末翌年も奨学金を得て晴れて修士号を取得した。そして帰国前に米国旅行の資金調達のため、1年間日本大使館で働くことを思い立った。経済班のポストが運良く空いていた。
 「人生って分からないもの。当初は1年で沖縄に帰る予定が永住する結果に。秘書の仕事は日米経済問題で来米する外務省や各省庁の要人のため、ホワイトハウスをはじめ各行政機関などの有力者たちとのアポの取り付けから昼食、夕食会の設定、さらに協議に必要な資料の準備等多岐にわたる。そのうち人脈が多くできて仕事がスムーズに運んだことはありがたかった」と話す。
 また昭和天皇、皇后陛下のご訪米の折は世話係の役目を。総理訪米やG8サミット会議の時はいろいろな仕事を任せられ沖縄サミットの時は幸運にも沖縄で働けた。「38年間は沖縄出身者のプライドとして最大限に努力し、いい仕事をするという意欲に燃えていた」と裕美さんは当時を振り返る。
 昨年11月、皇居内で行われた叙勲の式典には工学博士として今も国防総省関係の仕事をしている夫のポール・マッコイさんと共に参列した。裕美さんは、「叙勲当日の夜は在米大使館に勤務していた現外務次官をはじめ大勢の外務省の人たちが祝賀会を開いてくれ感無量だった」と話す。その後、53年前に卒業した熊本の高校を訪ね大歓迎され、沖縄でも小学校の同級生が大勢集まってくれ叙勲を祝ってくれた。
 今は趣味のダンス、卓球に興じ、二つのコーラスグループにも属し好きな歌を歌う充実した日々。そして漢詩や「枕草子」など古典文学の好きなくだりを暗唱しながら眠りに就くと言う。教養豊かですてきに年を重ねている魅力あふれる女性である。
(鈴木多美子通信員)