【島人の目】大震災がもたらしたもの


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 先日、ヨーロッパの地震大国、ここイタリアでまたもや死傷者の出る地震があった。未明にかなりの揺れを感じて跳び起き、家の最も厚い壁際に体を寄せて難を避けた。

 わが家は石造りの古い大きな建物。壁は家の背骨にあたる部分で、地震の際は一番安全ということになっている。だが、それは比較の問題にすぎず、巨大な石造りの建物が崩れ落ちたらたぶん助からない。揺れに身を委ねながら僕は死を覚悟した。これは誇張ではない。
 昨年、東日本大震災による祖国の巨大な不幸を、遠いイタリアで苦しく見詰め続けた。そこで感じた恐怖や悲しみは僕の中に深く沈殿し、その反動のような心の力学が働いてでもいるのか、自分自身が強くなったとも感じる。
 これまでにも繰り返し地震はあり、そのたびに家の中心にある壁際に身を寄せた。僕は臆病者なので、その時はいつもパニックに陥り、恐れ、不安になっていただけだった。
 ところが今回僕はひどく落ち着いていた。隣で恐慌に陥っている妻の体をかばいながら冷静に死を思い、覚悟した。そんな反応は東日本大震災の記憶なしにはあり得ない。
 石造りの家が崩壊する恐怖を差し引いても、そこで死を覚悟するなんて滑稽だ、と今になっては思う。でも、揺れのただ中では、僕は確かにそこに死を見ていたのだ。あるいは死に至る何かを冷静に待ち受けていた。
 「死の覚悟」なんて僕はこれまで断じて経験したことがない。東日本大震災が僕の人生観を永遠に変えてしまったのだ、と心の奥の深みで今、痛切に思う。
(仲宗根雅則、TVディレクター)