友の死 無駄にせず 「国場君れき殺事件」から50年


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中学校時代の集合写真を見ながら国場君に思いをはせる(左から)喜久山朝宣さん、宮城清志さん、中村光雄さん=26日、那覇市の琉球新報社

 沖縄が米国統治下にあった1963年2月28日、信号を無視した米軍トラックが上山中学校1年の国場秀夫君=当時(13)=をはねて即死させた「国場君れき殺事件」から28日で50年。

運転していた米兵は軍法会議で無罪となり、人権が踏みにじられた不条理な判決だとして県民は大きく反発した。事件から半世紀たった今も米兵による事件・事故は後を絶たず、日米地位協定の壁が横たわる沖縄。当時の級友たちは、事件と沖縄の現状を重ね合わせ「国場君の死を無駄にせず、米軍による犠牲者が出ない社会をつくらないといけない」との思いを強くしている。
 事件は那覇市泉崎の1号線(現国道58号)で発生。国場君は集団下校中、青信号の横断歩道を渡っていたところ、突っ込んできたトラックにはねられた。通学路だった現場には生徒たちも多く集まり、騒然となった。
 国場君と同じ学級だった中村光雄さん(63)、喜久山朝宣さん(63)は救急車で運ばれる様子を目撃。宮城清志さん(63)は事件の翌日、担任らと国場君の自宅を訪れ、変わり果てた姿と対面した。
 「中学生のままの国場君が今も脳裏に残っている」。深い悲しみや無念さを語り継ごうと、中村さんは事件に関する新聞記事や写真を資料として残している。
 喜久山さんは「国場君の事件から反米闘争が盛り上がってきたと思う」と振り返り「子どもたちを犠牲にしてはいけない。日米地位協定は見直すべきだ」と訴える。
 宮城さんは学級全員で撮影した集合写真を大切に保管している。そこには学級委員長を務め、周囲から信頼の厚かった国場君の姿も。「現場を通ると、必ず国場君を思い出して祈っている」という。「米兵による事件・事故が後を絶たないことに憤りを感じる。占領意識丸出しの構造は今も変わらない」。あどけなさの残る表情で写真に収まる国場君に思いをはせながら、悔しさをにじませた。(徳元謙太)

<用語>国場君れき殺事件の無罪判決
 1963年5月1日、軍人・軍属に関する刑事裁判を取り扱う軍法会議で、トラックで国場君をはねて死亡させた米兵に無罪判決が出た。米兵は「信号機の色は太陽の光が後方の壁に反射して識別できなかった」と主張。裁判は傍聴できず、判決文も明示されなかった。裁判の公平性が問われ、県民による抗議集会が開かれた。米国統治下では県民が米兵による事件・事故の犠牲になっても沖縄側に捜査権はなかった。