唄者貫いた人生 登川誠仁さん死去


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沖縄国際アジア音楽祭で大島保克さん(右)と「小浜節」を歌う登川誠仁さん=2012年3月16日、沖縄市のミュージックタウン音市場

 民謡の唄者として全国に民謡ブームを巻き起こし、登川流の宗家として多くの後継者も育成した登川誠仁さん。埋もれた民謡の掘り起こしや工工四への記録、プロデュース業も手掛け、豪快で人なつっこい人柄で多くの人を引き付けた「誠小(セイグヮー)」。沖縄市の自宅で20日から営まれた通夜には多くの民謡関係者が弔問に訪れ、幅広い功績と人柄をしのんだ。

 長男の登川仁さん(44)は「静かに、あまり苦しまずに逝った。最期の公演は昨年12月4日の大城美佐子さんとの本土公演。腹水が張って体調は良くなかった。それでも唄者として絶対にやり通すと(出演した)。人の言うことを聞く人ではなかった」と振り返る。「夜中も病院で歌っていたというんです。父は時代を超え、自由気ままにやってきた。やり残したことはないと思う」と話した。
 琉球民謡登川流研究保存会の徳原清文会長(64)は「18歳で入門してすぐ民謡クラブに駆り出され、一晩に何十回もリクエストを受けた。客の反応を見て曲を変えたり、短くしたりした。客を喜ばせることを人一倍考えた、まさに芸の人。付いて行く方は大変だったが、鍛えられた」と振り返る。
 戦後すぐから登川さん、喜納昌永さんとトリオで活動した民謡歌手・津波恒徳さん(85)は「戦後の民謡の始まりからの付き合いだ。『3人組』で残ったのは結局私1人になる。寂しいですね」と声を落とした。
 高校時代に登川さんの門をたたき、師弟で何度も共演した仲宗根創さん(25)は「何度も見舞ったが、苦しそうにしながら何度も『頑張りなさい』と言ってくれた。いつも『心なくして歌はなし』と言われた。歌に対する正直さを引き継いでいきたい」と声を詰まらせた。