『薄明の中で』 生存の真実とは何か


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 本の装丁から重さは受け取れないが、内容はずっしりと重厚な詩論集になっている。宮城松隆という詩人の、詩と思想に見合った追悼集である。生存は飛沫(ひまつ)をあげて浅瀬を渡ることもできる。しかし、青年期に垣間見てしまった詩や文学思想を、生き方の指針に据えてしまうと、小川は大河となって果て知れず、浅瀬は次第に深海となって、その水深は測れない深さへ目眩んでいく。見上げれば神や宇宙は想像力の届かない彼方へ遠退き、これぞ…とたぐり寄せたつもりになっても、手元には自分の器に似せた人形の模造があるだけ。生存の真実とは何か?

 この厄介な釣り針にひっかかって、生きるとは、死ぬとは…と答えのない迷宮へ放浪しつづけてきたのが、現代の詩人の典型的心象だといえる。宮城松隆の詩や評論を読むと青年期における文学への出会い方が、極めて思索的であったと思う。幼少期の戦争による身近な人々の死と、青年期の結核という現実体験の重荷が重なって、文学を通して思索するというスタンスが自ずから定まったとみる。こういうスタンスの取り方は、大方、二つの方向に分岐する。一つは時代の情況に過敏に反応する、いわゆる「社会派」とくくられる潮流、いま一つは思想的・哲学的思索の方位である。宮城松隆の読書遍歴は、ドストエフスキー、埴谷雄高、福永武彦など思索者の方位をとっているのは確かだ。
 追悼集に寄稿した32人は、詩・評論など自分の場をすでに確立している人物ばかりである。そのために、この追悼集は期せずして、沖縄における詩と詩論の現在の水位を鳥瞰(ちょうかん)できる内容となっている。
 特に、新城兵一や石川為丸、仲本瑩、西銘郁和の論は、単なる追悼ではなく宮城松隆の詩・評論、人となりを総括的に彫刻する重さをもっている。この追悼集には、まさに「スルメのような味わい深さが隠されている」し、世界認識の「重低音のエンドレスのフーガが奏で」られている。
 宮城松隆の作品の掲載誌が東京に重きをおいていたからか、または世代の違いか、生前は親交することもなかったが、詩と思想の良き理解者を逝かせたことを惜しむ。
(川満信一・詩人)