両親思い合掌 渡嘉敷「集団自決」68年


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渡嘉敷村の慰霊祭に訪れ、両親の亡くなった現場に初めて足を踏み入れた眞喜屋実美さんら=3月28日、同村北山

 【渡嘉敷】渡嘉敷村の慰霊の日(住民玉砕の日)に当たる3月28日、村主催の慰霊祭に訪れた那覇市出身の遺族4人が、沖縄戦の渡嘉敷村北山(にしやま)で「集団自決」(強制集団死)を強いられ死亡した両親が命を落とした現場を戦後68年にして初めて足を踏み入れ確認した。

 体験者や島の人々は今も、当時の呼び名である「玉砕場」にはめったに足を運ぼうとしない。
 現場を訪れた遺族は、戦前に渡嘉敷村第5代村長や同国民学校長を務め、戦争当時は同村産業組合長だった那覇市首里出身の故眞喜屋実意さん、妻ナヘさんの実子9人(男3人、女6人)のうち、末っ子で三男の眞喜屋実美さん(79)と妻浩子さん(70)=那覇市、故実意さんの孫の姉妹の宮城るり子さん(60)、千恵さん(54)=宜野湾市=の4人。
 戦争当時、眞喜屋さん兄弟姉妹9人は沖縄本島に住んでおり、両親2人だけ渡嘉敷村に残ったという。
 実美さんらは、両親の亡くなった場所を知っているという地元ガイドの案内で、現場(北山・フィジガー)を訪れ、手を合わせた。
 実美さんらは「現場を一度この目で確認したかった。このような悲惨な出来事は二度と起こさせてはいけない」と手を合わせた。
 沖縄戦で死亡した594柱のみ霊を祭った「白玉之塔」は、戦後6年目に「集団自決」跡地に建立されたが、1960年に現地北山が軍用地に接収されたため、62年に現在のギズ山に移動し新たに建立され、毎年、遺族らが参列して慰霊祭が執り行われている。
(米田英明通信員)