沖縄の本土復帰を、ことしも複雑な思いで迎えた人がいる。沖縄三板(さんば)協会会長の杉本信夫さん(79)=糸満市=だ。復帰前、東京で中学校の音楽教師をしていた杉本さんは沖縄民謡に引かれ、パスポートを手に何度も来県した。
現地で見た米軍の圧政に憤り、復帰運動に加わるようになった。あれから41年。「基地負担は減らず政府の姿勢も変わらない。不平等な占領支配を変えようと、あれほど打ち込んだ復帰運動とは何だったのか。沖縄を沖縄へ返せと、日本政府に言う時期にきている」と話す。
杉本さんは1964年、3泊4日の船旅で初めて沖縄を訪れた。4日目の朝、「ただ今本船は日本と沖縄を分離する27度線を通っています」との船内アナウンスで目が覚めた。
沖縄に通ううち、三板に出会った。三枚の板をひもでつなぎ、カスタネットのように打ち鳴らす伝統楽器に、楽しさを見いだした。東京で木工屋に頼み、桜の木で大量に作ってもらった。授業で生徒に打ち方を教える傍ら、三板の表面に「沖縄を返せ」とスローガンを書き、集会で1個「1ドル」で売った。
当時本土でドルを持つ人はいなかったが、沖縄と気持ちを一つにしようとの意味を込めた。原価50円の三板は、為替相場の360円であっという間に売り切れた。売り上げは返還運動の活動資金に充てた。
沖縄滞在中は地元の人から民謡を聞き取り、譜面に起こす作業を続けた。楽譜は、月3回発行の復帰運動の機関紙で毎号紹介した。連載「生きてる民謡」は復帰翌年の廃刊まで続けた。
2001年に協会が設立されたとき、名称は「日本三板協会」だった。だが鳩山由紀夫首相(当時)が前言を翻し普天間飛行場の県内移設を容認した10年、協会理事の総意で「日本」の看板を外し「沖縄三板協会」に改めた。新たな沖縄差別に対する抗議表明だった。
復帰後、沖縄に居を移し、32年になる。ことしも巡ってくる復帰の日に、杉本さんは「沖縄の思いは、どうやったらかなえられるのか考えたい」と語った。
(与那嶺路代)